僕の彼女はクラウドに。

下道溥

いちのひとつまえ

 香澄かすみは、今、ぼくの手の届くところにいる。

 僕のそばにいない時間の方がもちろん長いけれど、今は僕の目の前にいる。


 彼女の細い指がデカフェネイティッドキャラメルマキアートコーヒーのコップを持ち上げる。その湯気ゆげが彼女の眼鏡めがねくもらせ、カップがくちびるを隠し、彼女の表情を読みづらくさせる。


 もっとも、そうでなくとも僕が彼女の表情をどれだけ読めているのかは、分からないけれど。複雑な人なのだ、と僕は思っていて、僕はそういう様子ようすが好きだ。


 コップがコトンと机の上に戻される。とつレンズの表面から白さが消え、曇る前よりも、いくらか鋭くなったような印象の目線をこちらに送っている。


きみ、本気かい?」


 本気さ、と気軽に答えるのには躊躇ためらいがあった。


「本気……かな。多分、いけないことはないと思う」


 芝居しばいがかったためいきとともに、彼女が姿せいくずす。


「いけないことって、それは技術面での話だと思うんだけれど、りんもなにもあったものじゃないな。かどうか、倫理ようこうをいちから読んで聞かせた方がいいかな?」

「いや、いらない。そんなことをされたら香澄の前に僕が眠ってしまうよ」

「まったく。君はほんと、ある種、ろくでもないな。君と付き合ってるって知った奴が『へぇ……』とかなんとか言って微妙な反応をするわけだ」


 妙にうまい声真似まねで、共通の知り合いの一人が思い出される。


「それは、どうも。ともかく、やるだけやってみないか? これが原因で死期が早まる、ってことは、多分、ないはずだから」


 基礎の技術自体は、個別には、もう十分だ。今回の応用だって、猿での実験でも、成功が示唆しさされる事例が既にぽつぽつとある。僕の認識では、やらないから、やられていない、というのが現状だ。


「やめてくれ。そのくらいには信じてる。どっちかっていうなら、その私がうらやましい。私は私だとしてもね」


 僕には、もう、何も答えられなかった。




===


「私は今、この国で一番高価な衣装を着ているに違いないな」


 マイク越しに、彼女の声が入る。

 違いない。頭を含めて体全体を覆うスーツ。10年前の人間が聞いたら卒倒ものの密度で、センサがそのスーツの表面に、整然と多重に並んでいるはずだ。彼女の周りをかこう白い清潔感のあるリングも含めれば、ことによると、村ひとつくらい買えてしまう。


 夜の3時。いくら裁量労働が広まっても、この時間に起きている人間は少ない。


「ああ。始めるよ。しばらくお別れだ」

「あぁ。なんということ。またお会いできるかしら」

 劇がかった声を最後にマイクを切る。


 これから、リングは磁気をはじめとした、生体に影響がないと信じられているあらゆる手法と生体に影響があるかもしれないが大したことはないと信じられているあらゆる手法で彼女に干渉を始めるだろう。そして、体の上のセンサはその干渉の切れ目からデータを僕の手元に送るだろう。

 データは僕の手元で処理されて、僕には分からない手法で、僕に分かるデータに形を変えるだろう。そして、僕はまたそれを、僕の分かる手法で、僕に分からないデータにするだろう。そして僕はそれを……。


 夜の3時。人目につかないようにこっそりと。




===


 香澄は、今、僕の手の届くところにいる。

 香澄自身は、ひょっとするといないのかもしれないけれど、今は僕の目の前にいる。


 少し太くなった彼女の指がデカフェネイティッドカプチーノコーヒーのコップを持ち上げる。その湯気が彼女の眼鏡を曇らせ、カップが唇を隠し、彼女の表情を読みづらくさせる。


 尤も、飲食は突き詰めると真似フェイクだし、表情も生物学的な意味での人間の表情以外を表情と認めないというならば、存在などしないのだろうけれど。


 コップがコトンと机の上に戻される。平たいレンズの表面から白さが消え、曇る前よりも、幾らかやわらかい印象の目線をこちらに送っている。満足のいく味だったのだろう。


 その味を、人間と同じ意味では感じていなかったとしても。

 重い病気が体を破壊し、その機能を止めても。


 彼女は機械ガイノイドの体の中で、たぶん、きっと、生きているのだ。

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