第219話、いつまでも一緒に離れないと、あの日に誓った



今の自分には敵などいない。

勇のそんな考えは。

ただの欺瞞でしかなかったのだろう。


そう気勢を張るほどには努力はしてきたし、完なるものを討つことに対しての覚悟だって、並々ならぬものを持っていることを自負していた。

もう二度と、何者にも惑わされず、壊されない心をもった須坂勇その人として。


何故ならその決意は、勇にとってその身の一部と言ってもいい大切な人たちの犠牲によって成り立っているからだ。


強敵(とも)であり同志であり、勇が唯一背中を預けられる魂の相棒だった弟の哲。

勇にとって哲は、兄として情けなくも、いつも手の届かないところにいる……そんなライバルだった。


よく気が利いて賢く、心の広さを内包する落ち着きがあり、何より心根が優しい。

死んでも治らない負けず嫌いの勇にとっても、自慢の弟だった。

逆に言えば自慢の弟だからこそ、勝ち目のない勝負であっても諦めることなく挑み続けられたのだろう。

そんな弟に叶うように、なんて兄の意地で。


勝負……それは、少なくとも勇達兄弟にとっては、日々生きる糧となるくらいには、大事なものだった。


二人には、生まれた時から付き合いのある、幼なじみがいたのだ。

塁と言う名の一人の少女が。


勇自身の意志で彼女を大切に想い、慕うようになるのに、それほど時間はかからなかった。

それは、哲にとっても同じで。


勇と哲が同じくして塁に思いを寄せているとお互いに知って。

それからだった。

二人の勝負は始まったのは。


……どちらの想いが遂げられるか。

今思えば相手のことなどお構いなしの、自分勝手な勝負だったのだろう。

幼少のみぎりの若気の至り、と言ってしまえばそれまでだったが。

二人はどこまでも真剣だった。


人生をかけての戦い。

そう思っていたのに。

その戦いが、ある日唐突に終わるなんてこと、どうして思うだろう?




それは、今も忘れることのできない、勇にとって人生二番目の最悪の日。

それは……海の見え、潮風が白球を運ぶ、そんなグラウンドのある町へと。

リトルリーグの試合で遠征に行った時のことだった。


カーヴ能力と言う力が自分にもあることを勇は知っていたけれど。

その時の勇には野球が全てで。


ふいに現れた黒の太陽にも。

勇はただ、何もできずにマウンドの上からそれを見つめていたのに。


その秀でた才能が故に唯一その無慈悲な力から身を守る術を知っていた哲は。

その身に秘めし力で勇達を守った。


自身の命の火が消えることなどお構いなしに。

そう、正しくもその身をもって守る……頼れる恋女房のように。


それなのに。

黒の太陽に飲まれ塵と化す哲を、勇はただ見ていることしかできなかった。

理解は、夕空を蝕む闇のようにじわじわと勇を襲う。

身勝手な勇が思ったのは、負けっぱなしの勝負を勝ち逃げされてしまった……なんてことで。


いきなり、何の前触れもなく。

今までそこにいたはずの自慢の弟が消えてしまった。

そんな世迷い言をいったいどこの兄が信じられるというのだろう?


勇がその時できたことは。

目の前で起こった全てのことを否定し、断絶することだけだった。

一撃の下に壊れてしまったこころを、これ以上磨耗しないために。



それからの事は、はっきりとした記憶がない。

かろうじて覚えていたことは、ずっと泣いていたこと。

その身に余るカーヴの力が暴走したこと。

そして、自分自身すらも否定しようとしていた勇を支え抱きしめ、止めてくれたひとがいたこと。

ただそれだけだった。


その時の勇は死んでいるのと変わらなかったのだろう。

生きていると言えるほどに、記憶を留めていなかったのは間違いなくて。




それから勇が自身を取り戻したのは。

悔やんでも悔やみきれない人生最悪の日のことだった。



「―――兄さん、帰ってきてくださいっ。僕はちゃんとここにいます!」


まず認識したのは、心配げな声と。

どことも知れない、小さな小さな部屋だった。



「……え?」

「兄さん! 良かった……」


その声だけで、無だったはずの視界が色を付ける。

軋む混乱のなか言葉を返せば、それだけで人生最高の日であるかのように涙を流して喜ぶ哲。



(哲……哲だって?)


内心言葉に出して確かに哲にしか見えない目の前にいる人物を見て、勇は狼狽し、混乱で目覚めたばかりの脳がぐちゃぐちゃになる。


多分、その時勇は本能で察していたのだ。

そこにいるのが、哲ではないことを。

だがその時勇は、頭の中を渦巻く身を切るような不安感を、表に出さなかった。


今更ながら見得があったのだろう。

下手なところを見せたくなくて、考えなしに笑顔に変える。

そんな、哲であって哲でないひとは、そんな勇に『今まであったこと』を話してくれた。



あの黒い太陽が落ちて。

吃驚して自分の中にあるカーヴと言う力が暴走し……今の今まで目を覚まさなかったのだと。

哲があの黒い太陽によって消えてしまった事実を気のせいだと納得させるかのように。


目の前に哲がいる以上、紡がれるその言葉は疑いもないもののはずなのに。

拭えない気持ちの悪さ。

勇は、そんな気持ちを払拭させるべく、半ば無意識で言葉を紡いだ。

目の前にいるのが確かに哲なのだと、自分を理解させるその言葉を。



「いろいろと面倒をかけたね、哲。これで改めて勝負のほうも再開、と言うわけか」


それは、二人だけに通じる秘密の暗号。

お互いの証明。

……そのはずだったのに。


「勝負? ああ、野球の? どうですかね。まずはカーヴの力が制御できるようになって、ここを出ないと……」


返ってきた哲の言葉は、信じられないものだった。


……キミは誰だ?

思わずそう問いかけそうになって、留める。


誰だなんて本当はすぐに分かっていた。

ただ信じられなかっただけなのだ。


目の前にいる哲の顔をした人物が。

生まれた時から一緒にいる……勇の大好きなひとと、全く同じ色を持っていることを。

ダイヤのような七色を身に纏っていることを。

目まぐるしく流れる思考。


何故? どうやって? いったい何の意味があって?

考える。勇は必死に考える。


―――塁が哲になってしまった、その理由を。


だが、考えても考えてもその答えは出ない。

それが、もの凄く情けなかった。

得体の知れない不安と恐怖に、泣き出しそうになって。



「……ここは月が赤いんだな」


塁にそんな自分を見せたくなくて。

いつだって素直になれず、こころの柔い部分をさらけ出せない自分を自覚しながら。

勇は視線を逸らすようにして、格子によってくろがねのストライプの走った赤い月を見上げる。

何かで澱んで、変わってしまったその月を。


「……ええ、都会ですからね。この建物もそれで『赤い月』って言うそうです」


返ってくるその言葉は、ひどく緊張していた。

まるで、勇を恐れているかのように。


恐れているのは自分の方なのだと口にできればどんなに楽だろうかと思う。

キミに嫌われることが、何より怖いのだと。



「部屋も狭いし、まるで牢獄じゃないか。カーブの暴投だかなんだか知らないが、こんなところさっさと出るぞ、哲」

「はい、兄さん……じゃなくてですね。カーヴの暴走です。このまま外に出たら人様の迷惑になりますし、何より兄さんは病み上がりみたいなものなんですから……とりあえず今日は自重してください」


たどたどしい、『いつも』のやり取り。

だけどそこに、不安や恐怖はなく、ほっとする。



そんな束の間の回帰に。

一息ついて、また明日の約束をして床についた勇であったが。

その日を忘れられない日にせしめたのは、赤い月だけが見据える真夜中のことだった。



ノックもせずに、音も立てずに鍵かけたはずの扉が開く。


「……」


油断なく見据える勇の前に現れたのは、青髪の女性だった。

白衣を身につけているその立ち振る舞いは、医者と言うよりも癖のある科学者を思わせる。

その女性は、勇が誰何の声を上げるより早く、その細い指を口元へと持ってきた。

それが、喋るなと言う合図だと理解し、何故か素直に従った勇であったが。


らしくない自分への葛藤などどこ吹く風で、女性は部屋から出ていってしまう。

つまりはついてこい、と言うことなのだろう。


僅かに逡巡した勇だったけれど。

このまま誘いに乗らずにいるのもそれこそらしくない気がして、すぐにその女性の後に続く。


出て一つ部屋を挟んだ左隣が塁にあてがわれた部屋であることなど知る由もなく。

逆方向へと歩いていく女性を何の警戒もなしに追いかけて。


辿り着いたのは……一階下った所にある守衛室だった。

その月明かりだけがさす白い薄暗がりの部屋で、随分と無表情に見つめてくる女性に促されて席について。



「……あなたは、大矢塁、と言う少女を覚えていて?」


露崎、と名乗った……この『赤い月』で医師をつとめているらしい女性は。

事務的な挨拶の後、ふいにそんなことを聞いてきた。



「当然だろう? 何故、そんな当たり前のことを聞く?」


その時の勇はまだ何も知らない子供だった。

聞かれたことに対し、思うままにそう答えて。

とたん、返ってきたのは重い重い魂さえ抜けるような、悔恨の混じったため息。


「……じゃあ、どうしてあなたは! 彼女が呼びかけた時に答えなかったの? 当たり前ならどうして、彼女の苦しみに気づいてあげられなかったのよ!」


目の前の露崎という女性が、そうそう声を荒げるタイプでないことは雰囲気で分かっていた。

彼女が、どれだけ勇に対して怒っているのかも。


「……」


勇はただ、露崎の事を見ていた。

勇の身に覚えのないことだと、言いかけて留める。

それが誰を侮辱する言葉なのか、勇は気づいていたからだ。

そんな勇を見て露崎はどう思ったのだろう。

ただ、今一度深い懊悩を含んだため息を吐いて。



「彼女はもうこの世にはいない。殺したのは……私とあなたよ」


どこまでも冷たく、無感情に。


「あなたの心を取り戻すために、彼女は自分を殺し、あなたの弟として生きることを決めた。何故なら彼女は、あなたの弟ならば、あなたが泣かないですむと、信じていたから」


露崎はそんな言葉を投下する。


「なにを、言っている……?」


理解など、できるはずもない。

その言葉の意味が分からない。

無意識に呟いた言葉だけが全てを代弁していて。


「……あなたは、弟の死を認めたくなかった。だから心を壊し、直さなかった。でも今のあなたは、壊れた心を修復し、こうして私と話をしている。何故あなたが心を取り戻すことができたのか。あなたはもう、気づいてるでしょう?」


うまく扱えない言葉を自身で自覚しながらも、言葉を紡いでいるように見える露崎。


そう、本当は気づいていた。

何故今の今まで心を失っていた勇が、その心を取り戻したのかを。


歪みを覚えるほどの、自己犠牲。

どうして塁が、哲の声で、哲の笑顔でそこにいる?


何故、どうして?

その、うそ寒いほどの疑問が。

勇を暗闇の中から引きずり出させたのだ。


そこまでする必要がどこにあったのかと。

そこまでされて、自分は一体何をしているのかと!



「馬鹿がっ……!!」


歯が砕けるほどの慟哭。

自分に対しての、殺したいくらい怒り。

だが勇は……生きなければならない。


この、死にたいくらいの罪を背負って。

何よりも、強くあらねばならなかった。


彼女の犠牲を、無駄にしないために。

彼女の決意を、価値のあるものとして認めるために。


勇は、決めたのだ。

彼女を……須坂哲として、一生を賭して守っていくことを。





そうして。

須坂兄弟としての、カーヴ能力者としての日々が始まって。

幾星霜の時が過ぎていた。


塁のために、哲であることを認め続ける。

弟に叶う、頼れる兄として生きる。

それは、一見うまく行っているように思えたけれど。



破綻はふいに訪れた。

大矢塁その人の姿をした敵。

白状するならば、キレてしまったのだ。

塁がどれほどの覚悟を持って哲でいるのかを知らずに、と。


勇は、哲が本当は塁であることなど知らないはずなのに。

怒りを抑えきれずに、塁の前で塁の姿をしたものを傷つけてしまった。


その時の恐怖に染まった顔が、今でも忘れられないでいる。


―――キミがほんとうの塁であることを知っている。


勇はそう叫びたかったけれど。

それは同時に、塁の犠牲を無碍に貶める残酷な言葉だと分かっていて。


言いたくても言えない。

それにより蓄積される心の軋轢。

壊れない心をと誓ったのに、いとも簡単に揺らぐ。

勇には、それを怒りとして吐き出すことしか術はなかった。

そんな自分を塁に見せたくなくて。


その後ろめたさが……哲として見守る使命をおろそかにさせてしまったのだろう。

姿のないことに、ますます酷くなる、心の軋轢。


そして、そんな勇の心に楔を打ち込むかのごとく。

勇の目の前に現れたのは塁ではない哲だった。



……偽物。

塁の偽物。

いるだけで塁を侮辱する存在。

そう思うだけで、心がざわついた。

怒りが、抑えられない。


勇は、それを追いかける。

塁をこれ以上穢さぬよう、その存在自体を消すために。


いや、もしかしたらそれは、都合のいい建前にすぎないのだろう。

勇はただ、この際限のない怒りのはけ口を探していただけなのかもしれないのだから。


そうして辿り着いたのは、吐き気を催す、血だまりに羽散る地下室。

覚えるのは戦慄。

泣きたくなる凄惨。

あろうことか、哲らしきモノはそのまっただ中に立っていた。


まるで、この場所を冒涜するかのように。

青銀の光沢……氷の鎧で身を固めた赤い異形を波のように引き連れて。



「久しぶりだね、兄さん」


目の前のモノが笑う。

勇には、それが何を言っているのか、理解できなかった。

理解、したくもなかった。

だから代わりに、円月刀をそれに向ける。

湧き出す怒りを、抑えることもなく。



「礼を言わなきゃならないね……」


呟く勇は多分、笑っていたのだろう。

これほどまでに。

純粋な怒りをぶつけられるものに出会えたことの喜びがそこにあって。



「その姿を取る以上、楽に死ねないってことを、覚悟してもらうよ」


その瞬間。

戦いの始まりを告げる金属の軋れた音が。

辺りに染み入るように鳴り響いたのだった……。



            (第220話につづく)






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