第二章、『シールド』
第8話、甘い甘い砂
知己が喜望のビルを飛び出して一刻あまり。
そもそも携帯を使って何があったのか訊けば良かったことに気がついたのは、既に目的地に到着した時だった。
―――児童福祉施設『あおぞらの家』。
知己自身が、幼い頃育った場所でもある。
時間にすれば夕飯を終えた頃だろうか。
ぱっと見渡して家の電気がついているのを確認すると、知己はインターフォンを押した。
すると、間もなくにぎやかになってくる、扉の向こう。
夜になってからの客というのも珍しいだろうから、みんなで出てきたのかも知れなかった。
「だれー?」
向こう側から聞こえる、あどけない声。
「己だよ、知己だ」
知己はそれにちょっと苦笑いしながら答える。
すると、騒がしさに色がつき、結構な勢いで扉が開いた。
「あっ、ともみだーっ」
「お兄ちゃんおかえりーっ!」
「おかあさーん、ともみにいちゃんきたよーっ!」
迎えてくれたのは、年齢もまちまちなたくさんの子供たち。
「みんなただいま。今日はちょっと寄っただけなんだが、美弥(みや)はいるかい?」
知己の膝頭くらいしかない小さな子に目線を合わせ、知己は問いかける。
空想の産物だろうが現実のものだろうが、もれなくかわいいものが大好きな知己の表情は、破顔どころか溶けてしまいそうだ。
「みやちゃん? いまいないよ?」
「この時間は、いっつもいないよー」
「そうなのか?」
それは知らなかったなと、知己が眉を寄せていると。
「あら、知ちゃん、今日はどうしたの? ずいぶんと急なのねぇ」
そんな、間延びした声がかかった。
知己が顔を上げると、そこには空色の大きなエプロンに身を包んだ、青みがかった黒髪ロングの、ぽややっとした雰囲気の女性がいる。
「あ、恭子さん、ご無沙汰してます。その、さっき美弥からメールがあったんですが、美弥はどこかへ行っているんですか?」
この『あおぞらの家』の家長にして、知己にとっても母親同然である潤賀恭子(うるが・きょうこ)に、早速本題を切り出す。
知己が小さかった時とたいして変わらない若さを保つ恭子は、さらにぽややっとした笑みを浮かべ、言った。
「あらあら、それでわざわざ飛んで来てくれたの? 美弥ちゃんなら、この時間いっつも外に出てるのよ」
「一人で? こんな遅くに?」
驚いてそう言う知己に、恭子は再び笑って言った。
「もう、知ちゃんたら心配性ね。美弥ちゃんだってもう大人なんだから、そんなに遅くもないでしょ? それに、一人じゃないわ。きくぞうさんがついてるもの」
「大人だから物騒なんでしょう? いや、あいつは子供か。きくぞうさんが一緒なら尚更だ」
恭子の言葉を受け、考え込む知己。
美弥こと、屋代美弥(やしろ・みや)は、知己と同じ『あおぞらの家』出身で、知己とは同い年になる。
現在はこの『あおぞらの家』で家事手伝いをしているが、知己からすればある意味ここにいる子供たちと変わらなく見えるのだ。
……これも母親の影響だろうかと知己は思う。
「ふふっ。そんなに心配ならそばに置いてあげればいいのに、恋人なんだから。美弥ちゃんもきっと、それを望んでいるわよ?」
当の母親は、昔から変わらぬ笑みでそう言ってくる。
「そうしたいのは吝かではないのですが……って、何を言わせるんですっ。と、とにかく、ちょっと外見てきます!」
からかうような声色の恭子に、つい滑らせた本音を誤魔化そうと、知己はそう言って家を飛び出す。
「あらら、せっかちねえ。もうすぐ帰ってくると思うのに」
「知己、帰っちゃったのか? つまんないぞーっ」
「ともみにいちゃんもここにすめばたのしいのにー」
恭子は、子供たちの会話を聞き頷く。
「そうねぇ、知ちゃんがここを出るって言った時、やっぱり止めれば良かったわねぇ」
恭子の表情は笑顔だったが。
それはもう叶わないことであるかのように、寂しく響いた……。
※ ※ ※
「ったく、何もこんな夜に出なくてもよ。でもま、朝は家の仕事で忙しいか」
知己はぶつぶつ呟きながら、彼女ら散歩で通ったであろう道を走る。
道は一定間隔に照らされた街灯と、月明かり星明かりがあるのみだ。
まだ、ゴールデンタイムと呼べる時間帯だが、車の通りはほとんどない。
都市中心部から離れたベッドタウンとはいえ、この静けさはやはり『もう一人の自分』の賜物か……なんて思っていると、知己ふと思い出す。
(そういや、子供たちはもちろん、恭子さんも『もう一人の自分』のこと、何も言ってなかったな)
少なくとも、あの家ではそれを見た者はいないらしい。
テレビのニュースなどでは見ていたかもしれないが、実際に見た者がいるのなら、もう少し騒いでいただろう気はする。
知己としては、『もう一人の自分』が怖くてメールをしたんだと考えてただけに、いささか拍子抜けな感じはした。
知己や法久もそれを見ていないので、ひょっとしたらその辺りに何か『もう一人の自分』の謎を解く鍵があるのかもしれないが。
そんな事を考えていると、知己は小さい頃に良く遊んだ馴染みのパンダ公園に通りかかる。
まあ、実際はそんな分かりやすい名前ではないのだが、中央にあるパンダ柄のアスレチックが目立っていたのでそう呼んで覚えていたのだ。
知己が『ネセサリー』として歌う曲の詩の中に登場してくる、思い入れ深い場所でもあった。
「ここも一応通り道だと思うんだが……って、いやがった」
知己が何気なく視線を向けたブランコの影から覗く細い足。
走りやすさを重視した、おしゃれとは程遠いスニーカーと、白青ストライプのニーソックスといった組み合わせは、若さを通り越して幼さを主張してしまっている。
顔を見なくても分かる、間違いなくあれは美弥だと、知己は確信して声をかけた。
「おい、美弥ー? 何してる、こんなところで」
「はわゎっ!?」
いきなり声をかけられたことによほどびっくりしたのか、声をあげて飛び上がり、今にもブランコから転げ落ちそうな美弥に、知己は慌てて駆け寄る。
「おぉ、大丈夫か?」
「……知己?」
「ああ、知己だぞ」
まるでお化けでも見たかのような顔で、知己を見上げる美弥。
真正面から見ても、うなじの分かるほど纏め上げたシニヨン調のポニーテールは、ハニーブラウン。
泣いているわけでもないのにいつも潤んで見える瞳は、ベリーのような不思議な色合いだ。
「と、知己ーっ!」
「ぅおっと」
しかし、今は実際に、涙ぐんでいたのかもしれない。
驚きの表情を、喜びに溢れる笑顔に染め上げ、感極まった様子で知己の鳩尾めがけて、強烈なスマッシュ……もとい、頭から飛び込んでくる美弥。
知己は慣れと経験でそれをとっさにうまくあしらうと、片手で美弥の体を支え、反対側の手でさらさらの髪をぽむ、撫でてやった。
「相変わらず効くなあ、この一撃」
「うぅー、そんなつもりじゃないのだ、ただ知己が来てくれたのが嬉しかっただけなのだっ」
「分かってるって」
ちょっと拗ねてそう言う美弥に、今日一番の微笑みを浮かべ、知己は答える。
ちなみに、美弥の独特なしゃべり方は、法久のようなたいそうな理由があるわけでもなくただのお気に入りだ。
(どっちかというと気に入ってるのは知己くんのほうでやんす、と言うのは法久の弁だったが)
知己の背が高く、美弥があまりにもちんまいので、知己がしゃがまないとおでこすらつかない。
美弥はそのことを気にしているのだが、そんなリアクションも含めて、美弥という人物は知己のストライクゾーンをど真ん中160キロストレートで通過してやまなかったりする。
「……で? あんなメール寄越すなんて、何があったんだ?」
知己は惜しみつつも美弥を放し、ちゃんと会話できる状態に持っていった。
これでも仕事中で抜け出してきたんだぞとは思ったが、口には出さない。
「え? そ、その。急に知己に会いたくなったから、なのだ」
「……それはどうも。でも、ピンチって言ってたろ? 会えなくてピンチだったのか?」
それは本当なのだろう。
赤くなってぼそぼそとしゃべる美弥に、知己も必死で照れてないふりをして言葉を続ける。
「う、うん。知己パワーが充電切れになったのだ」
「本気で言ってるか?」
知己の声色に、ちょっぴり疑いの色が混じる。
「本気なのだっ、決して今やってるゲームの進み方が分からなくなったからじゃ……あっ」
そこまで言って美弥はしまったのだ、という顔をする。
「……屋代美弥?」
「は、はひっ」
恐怖のフルネーム呼び。特に親しい人を怒りたいときにはこうかはばつぐんだ。
両肩に置かれる知己の手に、美弥はびくっと跳ね上がる。
「己をなめているのか? それとも、ただ怒らせたいだけか?」
「あぅ。ご、ごめんなのだ……」
何かをこらえるかのような声色の知己に、ますます美弥は縮こまった。
そしてその途端、何かがぷちっと切れる音がする。
……でもそれは、堪忍袋の緒じゃなかった。
「……っ? と、とと知己?」
「ああもう、何でお前はそう言う嘘つくかな!」
思わず抱きしめたくなるだろうがっ、といった勢いのままに。
知己は美弥を両腕で包み込む。
美弥は突然抱きしめられて面白いくらいにうろたえつつも、嘘、という言葉に再び大きく反応して、びくりと震えた。
「どうして本当の事言わないんだ? きくぞうさんがいなくなって困ってたんだろう?」
美弥はそう言われ、はぅと息をつき、顔を上げる。
「な、なんで分かったのだ?」
「そりゃ、分かるさ。美弥の事は」
本当は、さっき恭子に美弥にきくぞうさんがついてると聞いていたのと、持ち主のいないリールがブランコに置いてあったのを見たからだが、多くを語らないのがかっこいい、ということにしておく。
ちなみにきくぞうさんは、つやつやふさふさの耳が可愛いパピヨン犬だ。
その、知己にとって凶悪な可愛さは、美弥のオプションとしてついてくると倍増する。
だから、きくぞうさんがいないのに知己が気づくのも当然の帰結だったりするわけで。
「す、すごいのだ。知己は美弥の事、ちゃんと分かってくれてるのだっ」
美弥の、ほえっとした感嘆の言葉。
しかしそれに知己は、苦笑を浮かべた。
「そんなことないさ、そりゃもう随分長い付き合いだから、ある程度の事は分かるが、まだまだ知らないことも多いからな。……ま、そう言うのを新しく発見するのが楽しいんだけど」
例えば、さっきのメール。
細かい内容を言わなかったのは、その判断を相手に任せ、自分がどれほど思われているかを量っているって言えなくもない。
それは今までにない美弥のアクションだった。
実際は焦ってたから、あんなメールになってしまったとも言えたが、無意識だとしても、相手に任せるけど、やっぱり会いたいって気持ちが良く伝わる方法だと知己は思ったのだ。
現に、知己はまんまとここまで来てしまったのだから。
「ほんとに?」
知己の言葉に、美弥はぽつりとつぶやく。
「本当さ、それでますます好きになるんだ、美弥のこと」
自らの言葉に嘘偽りなしといった風に、知己はそう続ける。
「うん、それは美弥もなのだ」
それは楽しい、ということについてなのか、好き、ということについてなのか。
きっと両方なんだろうなって知己は思う。
だから、甘えるように寄り添う力を強めた美弥に。
柔らかなその髪を、梳くように撫で続けることで、それに応える知己なのだった……。
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