【距離:目前】気配を感じても顔を上げられないレベル

94.夢にまで見た人

 ふと、誰かに呼ばれたような気がして、目を覚ました。


 目の前に広がるのは、誰もいない部屋。疲れのあまり、玄関に座ったまま眠ってしまっていたようだ。


 完全に夜が明けて、カーテン越しに落ちる日差しが明るくなってはいるけど、自分一人というところだけは変わらない。当たり前だ。


 ため息をついて、玄関に立ち上がりかけた瞬間、室内にインターフォンの鳴る音が響いた。


 更に、頭上から鈍い音が轟く。


 思わず、身を竦めた。


 誰かがやって来たのだと悟ると、あたしはカミュの冷たく燃える瞳を思い出して、ドアに貼りついたまま動けなくなった。




 またインターフォン。更にノック。


 そして――――声。




「エイル! エイル、いるの!? エイル!」




 あたしは慌てて扉を開けた。


 そこには、ふくよかな身体に紺の制服をまとった――夢にまで見た、母さん。




「あんた、ノエルから連絡もらったよ! 毎年毎年、難癖つけて帰って来ないけど、今年は何? 理由次第じゃ、張り倒して箱詰めにして送るぞ、てめえ! お墓にもずっと行ってないだろうが! いい加減、父さんに悪いと思わねえのか!? ああ!?」




 厳しい表情で叱る母さんの姿に、あたしは膝の力が抜けるのを感じた。


 母さんが驚いて、へたり込むあたしに寄り添う。


「え、やだ……あんた、怪我って顔のこれ? ちょっと、すごく腫れてるじゃないの! 足も血が出て……エイル、何があったの!? 一体どうしたっていうのよ!?」


 焦り狂って問い詰める母さんに、あたしはむしゃぶりついて泣いた。子供みたいに泣いた。


 柔らかくて温かい身体にしがみつくと、すごく安心した。



 来てくれたんだ、お母さん。あたしのお母さん。あたしの願いは届いたんだ。



 そう思ったら、嬉しくて嬉しくて堪らなかった。



 母さんはあたしを抱いて、もう大丈夫、大丈夫、大丈夫、と優しく囁いてくれた。




 泣くだけ泣いて、いくらか落ち着くと、あたしはリビングのソファに座り、母さんが荷物を詰めるのをぼんやり眺めていた。


 これから、あたしをノエル姉のところ――即ち実家に叩き込むのだそうで。


「あたしの家の方が近くていいんだけど、あたしは仕事が立て込んでるし、フレイグはこの夏季休暇のせいでお店から帰れないことも多いからね。ちょっと遠くても、ここに一人でいるよりはマシでしょ」


 とのこと。もう、考える気力も反論する体力もなかったから、あたしは素直に了承した。


 それから母さんは、シャワーであたしの身体を流し、服を着せ、足の裏の傷まで手当てしてくれた。


 あたしは魂が抜けた人形のように、なすがままに任せた。甘える、というより何をしていいか、わからなかったのだ。


 動かない娘に代わり、荷造りと身支度を終えると、母さんはあたしの隣に座り、何度も同じ質問を繰り返した。


「病院に、行かなくても大丈夫?」


 あたしは頷いた。


「本当に、大丈夫なのね?」


 また頷く。母さんはため息をついて、あたしの顔のガーゼに触れた。



「……この怪我、どうしたの? それに、背中も。全身、傷だらけじゃないの」



 何回も同じことばかり聞いていたのは、これをいつ尋ねようかずっと迷っていたからだろう。自分から話そうとしない、ということはきっと嫌な思いをしたのだと慮って。


 このまま見なかったことにしてくれるのでは、と期待していたあたしは、思わず目を逸らし、それからしまったと思った。


 しかし、失態を悔やんでももう遅い。


 次に発せられた母さんの声は、震えていた。



「…………まさか、アインス? アインス、なの? アインスが……あの子がやったの?」



 あたしは激しく首を横に振った。けれど、意志に反して溢れ出た涙が、母さんの言葉を何よりも強く肯定してしまった。



「嘘よ……何で? どうして、アインスが…………何が、あったっていうの……?」



 母さんは、きっと悲しい顔をしているに違いない。あたしは涙で熱くなった目を膝頭に当て、母さんを見ないようにして答えた。



「姉貴面するな、って。もう、お前の後始末はごめんだ、って。……二度と、会わない、って…………」



 そこまで言うと堪らなくなって、あたしは言葉の代わりに嗚咽を漏らした。


 母さんがあたしの肩を抱く。ソファに体育座りした小さな身体は、すっぽりと母さんの腕に納まった。


 何だか胎内に還ったような安心感に包まれて、それでもあたしは言うべきことを伝えなきゃ、と再び口を開いた。



「でもね、アインスが悪いんじゃないんだ。あたしが、アインスを、傷つけたから……あたしが、それに気付かない、バカだったから…………」



 母さんの腕に、力がこもる。それから少しの間を置いて、母さんは静かな声で尋ねた。



「ねえ……アインスが、初めて家に来た日のこと、覚えてる?」



 泣きながら、あたしは小さく頷いた。



「あんた、ソファで眠ってたアインスを、事故に遭った猿と勘違いしてたよね。包帯だらけで、身体も小さかったから……」



 覚えてる。


 まだ中等部だったけれど、その頃にはもう将来はメディカル・ハンターになると決めていたあたしは、ニールだけでなくこの子も助けるんだって、おかしな使命感に燃えていた。



『この子、ウチの子にしよ! 世話はあたしがする! どの種類の猿かわかんないけど、ちゃんと調べて立派に育てるから! 可愛がるから! 大切にするから!』



 そんなようなことを言って、母さん達を唖然とさせた記憶がある。



「エルフだよ、って五歳も年下のミクルに突っ込まれて『そういう名前の猿なの?』って、またバカなこと言って、今度はノエルに叱られてたっけ。アインスはね、あの時のあんたのあの言葉を、ずっと覚えてて……自分が猿なら良かったって、何度もあたしに言ってたのよ」


「…………何で」



 問いかけにもなってない呟きに、母さんは優しく答えた。



「『エイルちゃんと仲良くしたいのにできないから』だって。あんた、悪口で猿ってよく言ってたけど…………アインスには、もしかしたら嬉しい言葉だったのかもしれないね。それが聞きたくて、ちょっかいかけてたのかもしれないね」



 そんなこと、ちっとも知らなかった。


 あんなに一緒にいたのに、アインスの気持ちなんて何も知らなかった。


 あたしは、何も知ろうとしなかった。何も、何も、何も。



 ああ、帰りたいなあ、と強く思った。


 このまま、子供に帰りたい。たくさんのことを、やり直したい。



 母さんはあたしを抱き締めたまま、そっと囁いた。



「…………帰ろう、エイル。ノエルがいて、ミクルがいて、ニールがいたおうちに。帰ろ? ね?」



 母さんの声に、あたしは頷いた。泣きながら柔らかな身体にしがみついて、何度も頷いた。

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