92.届かぬ呼び声

「……カミュ!?」


 カミュがあたしの上に乗って、腕を押さえ付ける。その瞳には、殺気じみた光が燃えていた。


 これは冗談なんかじゃない。


 息もできないくらいに竦み上がったあたしに、カミュはやけに優しい声で告げた。



「エイルさん…………男の部屋にノコノコ付いていくとね、こういうことをされても仕方ないんだよ?」



 あたしは震えながら、必死に首を横に振った。


 嫌だ。絶対に嫌だ。


 カミュは薄く微笑み、小さく息を吐いた。


「そう、残念だね。あんまり無理矢理ってのは、好きじゃないんだけどな」


 そう言いながら片手でボタンを外し、着ていたシャツを脱ぐカミュを、あたしは恐怖に満ちた目でただ見ていた。


 怖くて、体が動かない。


 どうしよう。どうして。そんな言葉ばっかり、頭に浮かんで、何もできずに震えるだけで。


 カミュの指が、あたしのシャツワンピの胸元にかかる。



 嫌だ、やめて…………お母さん、お母さん、お母さん!



 鈍い音をたてて、シャツはあっという間に破かれた。スポーツブラに包まれた胸に、カミュの手がかかる。


「いっ……嫌! 嫌だよ、怖い! 怖い怖い怖い!」


「大丈夫だよ、優しくするから」


 そういう問題じゃねえ! という心の叫びは、すすり泣きにしかならなかった。


 異性に初めて、『女として』求められる――あたしだって、そりゃ夢見たことがないわけじゃない。


 けれど現実は、甘い想像とはまるで違った。


 カミュの獣欲を、触れ合う肌越しに感じながら、あたしは泣いた。怖くて怖くて、子供みたいに泣きじゃくった。



「…………お母さん」



 泣きながら、あたしは母さんを呼んだ。呼んだって届かないのはわかってる。わかってるけど、呼んだ。


 誰かの名を呼んでいないと、気がおかしくなりそうだった。



 ニール、お父さん、ミクル、ノエル姉、フレイグ、ファラン、ケイン……いろんな人達の名が浮かんでは消えていく。



 だけど、お母さん、という単語だけは消えなかった。


 すると、お母さんのことしか、考えられなくなった。



「…………っお母さん、お母さん、お母さん!」



 カミュは構わず、素肌に手を這わせ、くちびるを滑らせ、恐らく愛撫と呼ばれる行為を続けた。



 それはどんどん、激しさを増していく。

 そしてどんどん、範囲が広がっていく。



「やだ! やだやだ! お母さん!」



 恐怖で、鳥肌が立った。


 嫌だ、怖い、怖い、怖い!



「やめて、やめてよっ! カミュ、こんなのやだ! やだ、もうやめて!」



 あたしの声に、カミュはよく知る優しい穏やかな笑顔を向けた。




「……もっと俺の名前、呼べよ。誰に何をされるのか、しっかり覚えとけ」




 ぞっとした――姿形はカミュでも、中身が変質したみたいだ。リリムちゃんやアインスと同じように。



 初めて直に触れる、カミュの熱い身体。初めて間近で嗅ぐ、カミュの体臭。初めて見る、カミュの男の表情。


 初めて体感する何もかもが、怖い。違和感だとか嫌悪感だとか、そんなものも混じってはいるんだろうけど、かき消されて何も見えなくなるくらいに怖い。



 あたし……どうなんの?


 どうって決まってる、やることやったらポイさよなら。典型的なバカ女に成り下がるだけだ!



 そんなの嫌だと叫ぶ余裕もなくて、嗚咽を洩らしながら、あたしはひたすらお母さんを呼んだ。



「お母さん……お母さん、お母さん、お母さん……!」



 会ったのが随分、昔に思える。どんな会話をしたのかも、思い出せない。


 恐怖一色に染まった頭の中で、あたしは懸命にお母さんの顔を思い浮かべようとした。


 なのに昔の細身の『お母さん』ではなく、今のぽっちゃりした『母さん』しか頭に映らない。


 それでも良かった。だって、あたしのお母さんだ。細くても太くても、あたしの唯一のお母さんだ。



 お母さん、助けて。お願い、助けて。



 そこへいきなり、カミュの肩に爪を立てていた手が、掴まれた。


 しゃくり上げるあたしを見下ろし、カミュは冷ややかに笑った。




「泣いたって無駄だよ。お母さんは来ない。絶対に」




 とっくにわかってたことなのに、絶望で気が遠くなった。



 あたし……このまま、カミュに好き放題されるんだ。誰も、助けになんて来ないんだ。



 茫然自失してるあたしの手を、カミュは自分の下半身に押し当てた。薄い生地ごしに感じる、無機物でない熱さを帯びた塊。



 一瞬息を飲んでから、あたしは絶叫した。



「嫌! 嫌、嫌、嫌! お母さん、助けて! お母さん、お母さぁぁぁん!」



 半狂乱になって暴れても効果はなく、カミュはあっさりあたしを押さえ込み、行為を再開した。




 お母さん、お母さん、お母さん!!


 こんなに願ってるのに、どうして届かないの!?




 あたしは静止画みたいに脳裏に焼きつく、お母さんの声を思い出そうとした。


 お母さん、お母さん! 何か言って……あたしを助けて!




『エイル、アインスを頼んだよ!』




 ――――閃光のように、最後の会話が蘇った。




 あたしは弾かれたように叫んだ。


 もう二度と、呼ぶことなどないと思っていた名前を。




「……アインス! アインスアインス、アインス! アインス、アインス!!」




 カミュが、動きを止める。


 無我夢中で、あたしはその名を繰り返した。呼んでも届かないのは、わかりすぎるくらいにわかってる。それでも呼んだ。呼び続けた。


 すると突然、鈍い衝撃が、ガーゼをしている右頬に飛んだ。


 カミュが平手で打ったのだ。


 眼鏡は弾き飛ばされなかったけど、フレームが歪んで、レンズにヒビが入っていた。



「…………こんな時に、他の男の名前なんか、呼ぶんじゃねえ」



 ひび割れたガラス越しに、深く冷たい怒りに満ちたカミュの目が映る。全身から発せられる威圧感のあまりの凄まじさに、あたしは言葉を失った。


 けれどカミュの手が、ワンピを更に引き裂いてスカート部分もろとも完全に左右に割り開いた途端、あたしは思い出したように叫んだ。



「やだ、嫌! 嫌! アインス! アインス、アインスアインス!」



 今度は左頬を打たれた。


 アインスの名前を呼ぶ度に、カミュは容赦なく殴った。



 それでも、あたしは呼んだ。



 殴られながら、呼んで呼んで呼び続けた――冷酷な眼差しであたしを見下す、彼の名を。幻で再会した、悲しい瞳を揺らがせる彼の名を。


 かつて弟だった、大切な存在の名を。


 もう二度と本人に呼びかけることはない、その名を。

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