88.悲しみの果てに
「…………聞きたい、と思ってる?」
不意に問いかけられた質問の意味がわからず、あたしはぽかんとした。
「私があの後、何をされたか、聞きたい?」
「…………リリムちゃんが、言いたいなら」
長い沈黙が落ちる。
やがて、リリムちゃんの体が震え始めた。それだけで、思い出すのも恐ろしいほどに凄絶なことが行われたのだと知れた。でなくても、今の彼女の姿を見れば、あたしにだって多少の想像はつく。
「いい、いいよ。言わなくていい。思い出すな、もう大丈夫だから」
怪我に障らないよう、そっと腕を回して彼女の身を抱き、あたしは何度も大丈夫、大丈夫、と繰り返した。
「すごく、怖かった。すごく、痛かった。痛いなんてもんじゃない、でも痛いとしか言いようがないよ。なのに回復魔法で元通りにされて、また何度も何度も…………」
リリムちゃんは震えながら、泣いていた。泣きながらその場面を忘れようとするかのように、固く目を閉じて頭を振った。
「私、自分の魔力を買い被ってた。私だって、精一杯抵抗したし戦おうとしたんだよ……それでも、誰一人、倒せなかった。あんな奴らがそこら中にうろついてるところへ……あんな暗くて寒いだけの森に、あいつ、いくら金目当てだからって……」
「まさか、リリムちゃんが行った先って……?」
「うん……親父が死んだ、シータの森だって、言われた」
すんなり肯定され、あたしは二の句に詰まった。更に。
「『エイルズ』も、いたよ」
これには、返す言葉もなかった。
しかし凍り付くあたしとは反対に、『エイルズ』という単語を吐くや、リリムちゃんの震えは収まった。
「本当なら、真っ暗闇で全然見えなかったんだろうけど、パーティ会場だとかいって照明が焚かれてたから、見間違いじゃないよ。多分……ううん、絶対お姉さんが助けた子だと思うの。私を見ただけで、激昂状態になったもの。もちろん、『エイルズ』にもグチャグチャに引き裂かれたよ。でもね、あの子は他のモンスターや魔族達とは違った。私を、助けてくれたの」
集められた様々な種族に好き放題傷めつけられ、再生してはバラバラにされるを繰り返し、発狂するかといったところで――――漆黒のドラゴンは、岩場に座って眺めている首謀者、アインスとジンに何事かを叫び、訴えたのだという。
「あの二人は、ドラゴンの言葉がわかるみたいだった。それを最後に……終わったから、『もう許してやれ』って言ってくれたんじゃないかな、って思うんだ」
それから――敢えて回復を施されず、死なない程度に留め置かれたリリムちゃんは、この場に来て初めてアインスに声をかけられた。
『……何か、言いたいことは?』
頭を踏み躙られながら、リリムちゃんは痛い、と呻いた。すると、アインスは静かに吐き捨てた。
『お前のことなんか聞いてねえんだよ、クズ』
リリムちゃんはその瞳の冷たさに、震えた。
ただ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい、と謝り続けた。アインスはそんな彼女を見下ろし、低く告げた。
『俺も、お前のことは絶対に許さねえ』
そこで傍観していたジンがアインスの肩を抱き、耳元に何かを囁いた。
アインスは暫く、誰もいなくなった暗黒の森を見つめて佇んでいたらしい。
その後、リリムちゃんは二人の手で、スキュマからこちらに戻されたそうだ。
「死んじゃうんじゃないか、狂っちゃうんじゃないかってことより…………アイさんに、あんな目をさせたことが辛かった。怖くて痛くて苦しかった。だけど、アイさんにあんなことを言われて、あんなに悲しい目を見るよりは、マシだった」
そう言うと、リリムちゃんはあたしの手をままならない体で押しのけた。ガーゼの隙間から覗く瞳が、涙を流しながらあたしを睨む。
「私、お姉さんに嫉妬してるって、言ったよね? あれは本当だよ。お姉さんなんか、いなくなればいいって本気で思ってた。親父のことなんか、後付けみたいなもんだよ。羨ましくて妬ましくて、何でこの女が彼の隣にいるのって、吐き気がするほど憎んでた。この手で殺してやろうと思って、マンションにも行ったんだよ? 残念ながら不在で、未遂に終わったけど……もしいたら、きっと、ううん、間違いなく殺してた」
カミュとのデートから帰ったあの時――リリムちゃんは、それほどの決意を抱いて、あたしの家を訪れていたのだ。
そうと知っても、あたしは恐怖や理不尽に対する憤りなどは感じなかった。代わりに、じわりと悲しさが込み上げた。
「アインスのこと、好きだっていうのも……本当だったんだね」
つい漏らしてしまった言葉に、リリムちゃんはため息をついて肩を竦めた。
「バカみたいでしょ? 落とすつもりが落とされるなんて。でもさあ、一目見た瞬間から、アイさんしか見えなくなったんだよね。目に痛いくらい輝いて、私の中を突き抜けて、アイさんのことしか考えられなくなった。本気で彼が欲しいと思ったんだ。今までいろんなもの、手に入れてきたけど、こんなに欲しくて欲しくて堪らなくなることはなかった。こんなの初めてで、どうしていいかわかんないくらい苦しくて、胸がドキドキとかモヤモヤとかウズウズとかでいっぱいになって――これが恋なんだなあって」
リリムちゃんが、空を仰ぐ。あたしも釣られて顔を上げた。雲一つない晴れ渡った空。でも昔はもっと、青かった気がする。青くて、近かった気がする。
だけどもう、比べようがない。昔には、還れないから。
「…………アイさん、この病院に来たよ」
「え?」
あたしは思わず、空から彼女に視線を戻した。リリムちゃんは、空を向いたままだ。
「私が生きてるか、確認に来ただけ。怪我の具合見ても、ずっと無表情で、何も言わなかったよ」
あたしはリリムちゃんの横顔を眺めながら、彼女の可愛い顔を思い出そうとして、やめた。
「そのまま帰ろうとしたから呼び止めて、マドケンもう二度と受けられなくなったってことも伝えた。それでも無言だったから、悔し紛れに、お姉さんのこと聞いてみたんだ」
リリムちゃんが薄く笑う。あたしも笑みを返そうとしたけれど、うまく笑えなかった。
「生きてんの? って聞いたら、やっと口開いてさ、生きてる、って答えてくれて。それ聞いたら私、安心して泣いちゃった。そしたらアイさん、最後に森で見た時よりも悲しい顔して…………何やってんだろうね、私。悲しませたかったわけじゃ、ないのに」
あたしは――リリムちゃんからアインスの話を聞いて、己の不甲斐なさを再度思い知らされ、泣きたいような笑いたいような、複雑な気持ちになった。
アインスが何故、悲しい顔をしたかはわからない。でも、何かが悲しいと感じたんだろう。
絶対に許さないと宣言した相手にも、そんな顔を見せてしまうくらいに。
やっぱり、アインスは化け物なんかじゃなかった。
いろんなものが混じってて、ちょっと変わった姿をしているけれど、あたし達と同じ、何もどこも変わらない。
そう思ったら安心して、涙が溢れてきた。
本当にバカだな、あたし。
守らなくたって、大丈夫だったんだ。守るって言ってるあたしが、誰よりアインスを『化け物』扱いしてたんだ。
だって、信じているなら、守るなんてバカげたこと言わない。
だからアインスは、あたしを見切ったんだろう。
心のどこかで、自分のことを今も『化け物』として見ている、姉のフリしたバカを。
アインスは、ずっと傷ついていたのかもしれない。
『お前なんか弟じゃない』
そう言って突き放したあたしに縋り付いて泣いたように、いつかはわかってくれると信じて期待して――――でももう、疲れてしまったんだろう。
「…………ごめん。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
泣きながら、あたしは謝った。何を謝ってるのか、わからない。理由がありすぎて、わからない。
バカでごめんなさい。つけあがって、ごめんなさい。姉貴面して、ごめんなさい。守るなんて言って、ごめんなさい。
許してくれなくていい。でも、謝ることだけは許してよ。だから……アインス、ごめんなさい。
「お姉さん、お姉さん、泣かないで。お姉さんのせいじゃないよ。お姉さんに謝らなきゃならないのは、私の方だよ」
リリムちゃんがゆるゆると差し伸べた、ボロボロの手。アインスが壊した手。
あたしはその破壊の痕跡にいる、アインスにしがみついた。
「お姉さん、ごめんなさい。痛かったよね? 私がお姉さん、刺しちゃった。私の代わりに殴られたお姉さん、刺しちゃった。お姉さん、私を守ろうとしてくれたのに……ごめんなさい。お姉さん、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…………」
顔にガーゼを貼った女と包帯だらけの女。
傷だらけの二人はしがみつくようにして抱き合い、泣きながら詫び合った。
泣いている理由は違う。謝る理由も違う。
だけど今この瞬間、あたしにもリリムちゃんにもすがりつくものはお互いしかいなくて、あたし達はそうやっていつまでも泣き続けた。
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