84.もう二度と会うことのない君のため
アインスは、ようやくあたしに気付いたように視線を落とした。相も変わらず冷たい目であたしを見下ろし、同じように冷えた声色で言葉を落とす。
「…………今、どんな状況になってるか、わかる?」
横倒しの状態のまま、あたしはゆっくり首を横に振った。
「背中にリリムのナイフが刺さったまんまになってて、顔は俺が拳叩き込んだから、めちゃくちゃ腫れてる。わかった?」
吐き捨てるに等しい回答に、あたしは頷いた。道理で、片方の目が開かなかったわけだ。
「一応、教えとく。あの女はね、本名ノーリ・ギンナール。『エイルズ』を狙って返り討ちに遭って死んだ、あの魔道士もどきの娘だ」
ああ、そうか。そうだった。
『ギンナール』――どこかで聞いた名だと思ったら、あたしの搬送と共に遺体を回収された、一級魔道士のフリをした男の姓だ。
「といっても、父親としてもクズだったらしいから、いなくなって清々したらしいよ。親父の二の舞だけは踏むまいと、何としてもマドケン一級を取得したくて、何度も挑戦してきたとか。でもな、高いのは志だけ。中身は親父と同じ、クズだ」
アインスの話によると、リリムちゃんはこれまでの一級検定でも得点が高くなりそうな人物の邪魔をしていたそうだ。
マドケンは、得点が高い者から順に合格する方式ではない。極秘の基準点があり、それを満たせば全員だろうと合格できる、とされている。
けれど一級のように狭き門では人数が少ないため、必ず『他者と比較』される。
合格基準のラインがどういったものなのか、ひどく曖昧な中、しかし『他者との比較』で劣ると見做されれば落ちる確率が高まる――――と、彼女は危惧していたようだ。
「で、今回のターゲットは俺。協力者は、さっき吹っ飛ばしたオッサン。アレ、マカナのお偉いさんで、親父の方のギンナールの手を借りて、今の地位に上り詰めたんだって。マカナではそういうの珍しくないそうだから、毎度毎度、そういう表には出せない繋がりのある奴を脅して、都合良く設えさせた舞台で踊る。それが、あいつのやり方。お勤め先は主に、マカナの高級娼館で、ご丁寧に検定ごとに整形して顔変えてるとか。魔法を媚薬代わりにして、ハッピーにしてやってるんだろうな」
バカだ、とあたしは思った。
合格に必要なのは、幸福度だ。
経験のないあたしには、性行為が相手にどれほどの歓びをもたらすかなんてわからない。
だけど男を歓ばせるだけなら、魔法なんていらないじゃないか。
そんなくだらないことに使うくらいなら、子供達に光魔法を見せてあげた方が、よっぽど点数稼ぎになるのに。
何で、こんな単純なことがわからないのか。
恐らく、何のために一級魔道士になりたいのか、彼女自身にもわからないからなんだろう。
「敵陣視察に来た時は、驚いたんじゃねえかな……だって、同じ舞台に立って主役争いをしてる奴の傍に、親父と因縁のある奴がいるんだ。しかも、とても仲が良さそうに見える。これは痛めつけ甲斐があるって、燃えたんじゃね?」
主役争いをしてる、ではなく、してるつもりに勝手になってる、の間違いだ。
アインスを痛めつければ、あたしが傷付く。あたしを痛めつければ、アインスが傷付く。彼女はそう目論んだ。
しかし、思い通りにはいかなかった。
確かにMPは、精神状態次第で激しく上下するという。けれどアインスには、精神攻撃が効かなかった。色仕掛けで骨抜きにする計画も、家族を危機に晒して動揺させる計画も、無駄に終わった。
「……あとはわかるよな? オッサンもあの女を持て余していたようだから、片付けてやるって持ちかけて、ここまで連れて来させた。あいつはもう二度と、マドケンなんて受けられない。あいつには、一級魔道士になる資格なんかない。それを思い知らせてやるためにな」
あたしは小さく頷いた。
何も言わなかった。言えなかった。ただ黙って、あたしの知らないアインスの紡ぎだす言葉を聞くしかできなかった。
あたしにとって、今回の彼女の一番の過ちは、『アインス・エスト・レガリアはエイル・クライゼに依存している』と勘違いしたことだったと思う。
彼女は偽の妊娠報告で、あたしの方からアインスに距離を置かせようとした。そしてあたしが危険な目に遭えば、アインスの心が折れると踏んだ。
でもそうはならなかった。
何故って――――だって、アインスは強いから。
あたしの支えなど、本当は必要としてないって、心のどこかではわかってた。
あたしのために、弱いフリをしていただけだ。
姉という立場だけを頼りに、傍にいて甘えてばかりの、情けないくらいに弱いあたしのために。
バカだ、とあたしはもう一度心の中で呟き、嘲笑った。
リリムちゃんに対して、ではない。
誰よりもバカな、この自分に向けてだ。
天使だと信じていた二人。一人で勝手に思い込んでたくせに、裏切られた気になってるバカなあたし。
そんな自分が、何より誰より愚かで惨めで、情けなくて憐れで、バカバカしくて――――泣けてきた。
「……で、お前、何しに来たの?」
笑いながら泣いているあたしに、アインスが氷のように冷えた音声が落ちる。突き刺さる。あたしは答えられず、どこがどう痛むかもわからないまま、何をどうしていいのかわからないまま、嗚咽ばかりを返した。
今のあたしにわかるのはただ一つ――もう戻れない、それだけだ。
「ジンの話じゃ、何か俺を守るんだとか言ってたらしいじゃん? 何それ? いつまで姉貴面してんの?」
あたしは首を横に振った。何もかもを否定したかった。アインスの話も聞きたくなかった。聞く意味もないと思った。
だけど、逃げることは許されない。
しっかりと宣告を、受けなくてはならない。
「自分のために、こんな茶番が組まれたとでも思ってる? つけあがんなよ、これは俺個人の理念のためだ。あいつはマドケンを冒涜してきた。つまり、魔道士も魔道士を目指す奴らも、侮辱した。それに……一応は家族って形になってる奴に手出しされたんだ。オルディンの一族として、俺のプライドが許さねえ。でもな」
平衡感覚が揺らいだ。アインスがあたしの髪を掴んで、目を見据えた。
殴られたことは何度もある。
けれどこんなに雑な扱いは初めてで、悲しくて悲しくて、涙が溢れた。
「お前みたいな頭の悪い奴の後始末は、もう二度とごめんだ」
涙で揺らぐ視界の中で、あたしはアインスを見た。
それは、あたしのよく知るアインス。
悲しそうに、泣きそうになっているアインス。
毎年夏の間だけだったけれど、十五年あたし達の家族だったアインス。
――――でもこれはきっと、憐れなあたしの心の見せる偶像なんだろう。
現実のアインスは、あたしの背中に刺さる刃物よりも鋭く冷たくて、何よりももう、他人なのだ。
それを痛いほど理解できたから――だから、どう腫れているのかもわからない顔をアインスに向けて、あたしは小さくくちびるを動かした。
「…………わかった。さよなら、アインス……」
小さく擦れたあたしの声が聞こえたのだろう。
アインスはあたしの髪から手を離してゴミのように地面に叩き落とすと――小さく告げた。
「…………二度と、会わない」
そして足早に、暗黒のスキュマの奥へと消えていった。
それからあたしは――全身のありとあらゆる苦痛に堪えながら這いずり、荒く浅い呼吸で何とか自分の心臓に空気を送り込みながら、少しでも遠くに離れようと奮闘した。
ぼろ雑巾みたいになったあたしの身体には、至る箇所に暴力の痕跡がある。さらに背中には肉を抉るナイフまで残されている。
こんなところで、倒れていてはならない。
こんなところで、死んだりしたらいけない。
ここには、いつ閉じるともわからない違法のスキュマがある。
ここであたしが死んだら、共に暮らしていた家族であり魔力の高いアインスが疑われるかもしれない。
ジンは揉み消せると言ったけれど、疑惑が息子ではなくアインスに向いてしまったら、マギアの宮廷魔道司教は動いてくれないかもしれない。
アインスがマドケンを受けられなくなることだけは、絶対に避けたかった。
だからせめて、死ぬにしても違う場所で死ななくてはならない。
アインスの迷惑になってはいけない。
アインスを苦しめてはいけない。
アインスを――守らなくちゃいけない。
バカげたことではあるけれど、これがバカなあたしが姉として最期にしてやれる唯一の孝行。
あたしは、最後に幻覚で出会ったアインスを、ただ守りたかった。必要ないと突っ撥ねられても、できる限りのことをしたかった。
もう二度と、会うことのない大切な弟のために。
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