83.神と魔の共存

「…………アインス、ダメ」


 あたしは小さく漏らした。大声を上げたかったけど、声が出ない。


 アインスは絶対零度のような瞳であたしを一瞥してから、リリムちゃんのお腹に、何度も何度も足を振り下ろした。その度に、リリムちゃんのくぐもった悲鳴が溢れる。



「…………アインス、ダメ。赤ちゃん、死んじゃう……」



 アインスはリリムちゃんの腹を踏み躙りながら、もう一度あたしを見た。


「リリムちゃん、可哀想なエイル姉さんが何か言ってますけど? 赤ちゃんが、どうしたんですかあ?」


 わざとらしく問うアインスの声に、リリムちゃんは仰向けに転がって浅い息を吐きながら、小さく震えた。


 震えがどんどん大きくなって全身に広がった時、あたしはようやく、彼女が笑っているのだと理解した。


 天使のような笑い声じゃない、烏のように甲高い、不快な音声だった。



「……あんたの姉さん、本当にバカよね。私が妊娠したっつったら、あっさり信じてマジで泣きそうになってるの。私、笑い堪えるの大変だったんだから!」



 苦痛に顔を歪めながらもリリムちゃんは、その烏じみた声と嫌な口調に似合いの笑顔で言った。


「でも……そうね、今じゃなきゃ妊娠してやっても良かったわ。何たってエルフの子だもの、きっと高く売れるでしょう? 検定期間が終わったら、また寝てあげてもいいわよ?」


 あたしは邪悪な笑顔で繰り出される言葉を、ただぼんやりと聞いていた。


 アインスは、リリムちゃんの腹を踏み付けていた足を下ろした。


「アレがバカなのは、今に始まったことじゃねえよ。でもな、お前も相当頭悪いって、気付いてる?」


 そして彼女に笑いかけ、着ていたシャツを脱いだ。ピアスに彩られた、細身だけれど筋肉質な肉体が晒される。


 アインスは笑みを消して、告げた。


「俺は、エルフなんかじゃない。お前みたいに、『マカナの整形術』で作り上げたのとは違うけどな。その目で、確かめろ」



 すると、アインスの周りの空気が変わった。



 濃密で、重苦しい気配が満ちる。


 ビキ、と嫌な音がした。


 目を背けたい。なのに逸らせない。

 見たくない。なのに目を奪われてしまう。



 ああ、と呻いたのは、あたしか。それともリリムちゃんか。それすら、わからなかった。



 肩甲骨を突き破って現れたのは、純白の翼。


 額を裂いて開かれたのは、血のように紅い眼。


 頭部を割って飛び出てきたのは、緩やかに湾曲した角。



 けれど、それらの変化は左半身のみで、右半身は全く変わっていない。



「…………面白いだろ? こんな姿見られるのは、今の内だけ。マドケン中、限定スタイルだ」



 アインスは左側だけ伸びた犬歯を見せ、冷ややかに笑った。


 ――そうか。『レコードシステム』に半分の魂を奪われているせいで。



 あたしは一人納得し、初めて披露されたアインスの『真の姿』を見つめた。




 これが、グリフの言っていた『化け物』。


『魔物なんてものを振り切った、恐ろしい化け物』と呼ばれた姿。


 白い翼は神族の証。しかし複眼や角は、魔族の証。




 そう、『神族』と『魔族』両方の性質を備えた異形――――それが、アインス・エスト・レガリアの『正体』だったのだ。




 長く共にいながら、あたしはこのことを今初めて知った。ずっと知らなかった。聞こうともしなかった。


 でもそれは、興味がなかったからじゃない。


 彼が何であろうと構わなかったから。

 ――アインスを、家族として愛していたからだ。



 あまりの光景に声を失い、震えるばかりのリリムちゃんに、アインスはそっと屈み込んだ。


「どうしたの? 俺が怖い? あんなに好きだって言ってくれたのに。赤ちゃん、欲しかったんじゃねえの?」


 それを聞くと、リリムちゃんはくちびるを噛み締め、きっとアインスを睨み上げた。


「お前、絶対、許さない……!」


 呪詛を吐くような声音を、アインスは笑みで受け流した。


「許してくれなんて頼んでねえよ? さあ、そろそろ遊ぼうか!」


 アインスの言葉に、リリムちゃんは浅い息をさらに浅くした。


「マドケン一級受けるくらいだから、知ってるよな? 『魔族の所作』は『魔法』とは区別されるって」


 そう言ってアインスは、掌を軽くリリムちゃんに向けた。すると、耳障りな音を立てて暗闇を照らすように鮮やかな電撃が走る。どれほどの威力だったのか、リリムちゃんは声も立てずに激しく痙攣した。


 電撃が消えてもビクリビクリと震え続ける彼女の髪を引き上げ、アインスは笑顔のまま優しく語りかけた。


「『攻撃魔法』かと思った? でも、違うんだよ? これは『魔族』にとっては蹴るのと同じで、『ただの行動』だから『魔法』としてカウントされない。つまり、『レコードシステム』には残らない。わかるかなあ、わからねえか?」


 アインスの笑みが消えた。リリムちゃんは恐怖に呼吸を乱して必死に首を横に振る。


「大丈夫、これからしっかり教えてやるよ。他人を蹴落とすこと欺くこととと色仕掛けばかりで、ちゃんと勉強してこなかったリリム・ミオネ…………いや、ノーリ・ギンナールちゃんのためにな」


 髪が千切れそうな程、リリムちゃんの首を持ち上げてアインスは吐き捨てるように告げた。



 ギンナール?


 その姓に、聞き覚えがあった。誰だっけ? どこで、聞いたんだっけ……?



「じゃ、行こうか。お前のために作ったスキュマだ。笑顔で凱旋渡界といこうぜ!」


 リリムちゃんは泣きながら、助けて、という言葉だけを繰り返していた。


 助けて、助けて、助けて、助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて。


 しかし、彼女の願いは届かなかった。アインスにも。そして、『メイン』の登場に待ちくたびれたマギアの観客にも。


「…………レガリア、まだ? とっても遅いから、迎えに来たよ」


 スキュマから這い出し、拙いマジナ語で語りかけてきたのは、漆黒の見上げるほどの巨体に大きな一つ目が特徴の――サイクロプスだった。

 続いて緑の肌をしたオーガや毛むくじゃらのグレンデルなども続々と顔を出す。


 彼らの姿を見ただけで、これからの運命を悟ったのだろう。リリムちゃんはもう声をたてるすらできずに、ただ噛み合わない歯の根を小さく鳴らすしかできなくなった。


「∑ ∝ я я ∫ , ∫ ∝ л ト F † ↑ F < м ≯ I ∑ . ∞ ∝ † ' ↑ ↱ ∝ я x м ↑ я м ト ∝ п м я ∫ . (悪い悪い、いいよ持ってって。回復だけは忘れんなよ)」


「はい、わかった」


 恐怖に喉を引きつらせるリリムちゃんに、サイクロプスが手を伸ばす。


 リリムちゃんは泣いた。泣いて泣いて許しを乞うた。けれどサイクロプスの剛腕は、片手であっさり彼女の胴を捕らえ、文字通り手中に収めてしまった。



「そんな泣くんじゃねえよ。たくさんの奴らが、お前を待ってんだぜ? 何たって、本日のパーティの主役なんだからな! じゃ楽しんで!」



 泣き叫ぶリリムちゃんがサイクロプスと共にスキュマに消えると、気の遠くなるような静寂が落ちた。

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