76.言えなかったこと、ひとつ
狭いところに押し込まれた分、ぎっちぎちに凝縮されたゴミ山を崩さないように、細心の注意を払って手洗いとうがいを済ませたあたしは、アインスとの共同部屋に向かった。
アインスはとてつもなく不機嫌そうだったけど、帰る途中で買ってきたお土産のピザ五枚をちらつかせるとすぐに笑顔になった。
それを二人で分け合いながら、あたしは今日の出来事をできるだけ詳しく話した。リリムちゃんが訪れてきたこと、チンピラに襲われたこと、そしてチンピラ3も協力を申し出てくれたこと。
リリムちゃんの話以上に、チンピラ3の言葉に関心を持ったようで、アインスは切れるような眼差しをさらに尖らせた。
「そいつ、俺のこともリリムのことも知らないって、確かにそう言ったんだな?」
ピザをもぐもぐしながら、あたしは頷いた。
「…………わかった。支援は多い方がいい。オオカミの手も、借りてみるか」
アインスが無表情で呟く。何かしようとしているような口振りに、あたしはピザを飲み込んで問いかけようとして、止めた。
あたしの包帯を巻いた腕に鋭い視線を送っているその顔が、知らない人みたいに見えたから。
「≯ I ∑ I † <> л T я ∫ I ∑ ↑ ∝ ∝ м ψ ς м † ↑ I п м……I P I г г 門 F < м ↱ л ト < ◇ β л ∑ ↑ F я ∞ ς F ∫ ≯ I ∑ ∞ м β ↑……∞ м ↱ I † м I ↑ м я ∫ !! (この傷の代償は高くつくぞ……必ず支払わせてやるから、覚えとけ!)」
刃こぼれ一つない、研ぎ澄まされたナイフのような瞳には、暗い光が満ちていた。
こんなアインスの表情、初めて見る。怒ってるところは何度も見てきたけれど、これまでのそれとは別物――というより、異質だった。
と、そこへ、何とも明るく間抜けた音楽――『そりゃそりゃマーブル音頭』が割り込んできた。ソイヤそりゃソイヤそりゃマーブルマーブルえっさっさ~と歌う携帯電話を、アインスが慌てて取る。
こいつ、何てバカな曲を着信設定にしてるんだ……シリアスな雰囲気が台無しじゃん!
アインスはこれまでと打って変わって、無邪気な笑顔で話し始めた――マギア語を使っているところから伺うに、相手はマギアのお友達らしい。
シータスラングが凄まじすぎて詳しくはわからないけど、電話のお相手に食事をごちそうする約束を交わしているようだ。マジナに遊びに来たお友達と久々に会う予定なのかもしれない。
にしても、今まで食ったもんがう○こに思えるくらいのやつ食わしたる! ……はねーだろ。ほんとグローバルバカだわ。
バカ笑いするあまり、もたれていたマットレスに仰け反り、そのままベッドに転がったアインスの姿を眺めながら、あたしは密かにため息を吐き出した。
――――言えなかった。リリムちゃんのお腹に、アインスの子が宿っていること。
言わなきゃならない。わかってる。なのに彼女に口止めされたのを理由にして、逃げてしまった。
電話の向こうの友達相手に楽しげに笑うアインスのは幼子みたいに無邪気であどけなくて、父親になるなんて信じられなくて――見ているだけで、胸が詰まった。
アインスだって、まだ子供だ。守られたくて、身近な家族にだだをこねるくらい未熟だ。
それでも、本人の責任とはいえ、アインスは守るべき立場に押し流されようとしている。
「エイル、そこの飲み物取って! ピザ食べて喋りまくったら喉乾いた」
通話を終えたアインスがこちらを向き、ベッドから手を伸ばす。その笑顔から目を逸らし、あたしは側にあったお茶のボトルを手に取った。そしてわざと嫌そうな表情を作って本心を押し隠し、それを渡す。
ところが、アインスはただお茶を取るんじゃなく、あたしが伸ばした右腕ごと引っ張った。
「ぬをっ! っぶねえな、何すんだよ!」
「誰と電話してたか気になる? 気になるよな? 気になって仕方ないから、しゅんとしてるんだよな? エイルちゃん、かっわいい〜!」
「都合良い勘違いしてんじゃねーよ! 微生物ほどにも気にならねーわ! 茶ぁ返せ!」
マウントポジションを取り、ついでにボトルも取り返したあたしはフフン、と不敵に笑ってからお茶を一気に飲み干してみせた。もちろん、嫌がらせだ。
「あー! 何で全部飲むんだよ、ドケチドチビ筋肉眼鏡ブス! もうキスしてやんないんだからね!!」
……全部盛りの悪口は、百歩譲って許そう。
だが!
キスという単語だけは我慢できん!!
「キスしねえだあ? おう、願ったりだよ、バカ猿! てめえのせいで、あの後キタセンで大変な思いしたんだぞ!? 人前でクソ恥ずかしいことしやがって! 余計なこと言いやがって!」
「ああ!? 俺だってジンに怒られるわ泣かれるわで、大変な思いしたんだからな!」
「元はといえば、お前が悪いんじゃん! 鍵カチカチやって遊んで、玩具見つけたバカ猿かっての! 車ごとジンっていう玩具くれてやるから野生に帰れ!」
「じゃあ、一緒になってカチカチやってたエイルもバカ猿だな! ようこそ、我らが猿世界へ! 仲良くしてやるよ眼鏡猿!」
きいい!
いかん、呻き声が猿っぽい。やり直し。
くうう! こんのクソ生意気な子猿めがぁ!
有利なマウントを取っているのをいいことに、あたしは拳を振り下ろした――が、あっさりと受け止められてしまった。
「ダメよ、エイルちゃん。今日は怪我してるんだから、大人しくなさい。治ったら相手してあげる!」
こいつ、思いっきりバカにしてるよな?
真下で笑うアインスに、あたしは今度こそ正真正銘のクソうざいですよオーラ・フルスロットルの顔を向けた。
「よし、じゃあ約束通り、エイルからキスしてもらうかな!」
…………何でそうなる!?
「はあ!? 約束なんてしてねえわ! お前が勝手に言っただけだろ! なぁにぃが、『今夜もまたキス、し、て、ね』だ、バカ!」
「やだ、今夜もキスしてって、エイルちゃんから言ってくれるなんて! 何て情熱的なの! アインス君、感動しちゃった! じゃ、リクエストにお応えしまぁす!」
アインス、あたしの頭に置いた手に力を込める!
あたし、右腕を支えに、必死に踏ん張って頑張る!
しかし、片腕だけのひ弱な抵抗じゃ、徐々に顔が近付いていって――――いやあああ! このままじゃ、力負けしちゃう!
誰か、このバカを殺してえええええ!!
「おいーっす、アイちゃん、起きてるぅ? ……って、うおあああ! 何やってんすかあ!?」
ジンの能天気な声が悲鳴に変わった瞬間、あたしの腕はついに限界を迎え――アインスに落ちた。
キスではなく、ヘッドバットが。
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