55.傷だらけの弟達

 母さんに連れられて、家にやって来たアインスはまだ五歳。しかし、その小さな体は全身包帯やらガーゼ塗れで、隙間からも痛々しい傷やら痣やらがところどころ覗いていた。


 妹のミクルとノエル姉、そしてあたしが揃ったところで、母さんは重い口調で事情を説明してくれた。アインスは生まれてからずっと、唯一の肉親である母親から虐待を受けていたらしい、と。


 彼の父親に当たる男性は、アインスを身籠ったと知らされるより前に姿を消した。後で発覚したのだが、どうやらその男はマジナに一切の立ち入りを禁じられているマギアの種族、俗に言う『特級禁種』だったようだ。


 そのことを知らないままアインスを生んだ女性は、愛する人を待ち続け、待ちわび、そして待ちくたびれ――行き場のないやるせない想いを、愛する人の面影を受け継いだ我が子に向けて吐き出していたという。


 このままでは、この子を殺してしまう。


 そう考えた女性は、ハーフエルフというマジナでも非常に珍しい種族だろうと特別扱いせず、分け隔てなく接してくれた唯一の友――母さんに連絡を取り、全てを打ち明けた。


 そこで母さんが、一時的にアインスを引き取ることになったという。当の女性は、すぐ病院に入院した。彼女自身にも、アインスに与えた以上に凄まじい自傷の跡が見られたそうだ。


 苦痛から解放されたけれども、アインスの心身に刻み込まれた虐待の傷は、あたし達の想像以上に深かった。


 身体の傷が癒えても心の傷はなかなか癒えず、アインスは母親と同じように弱いものに攻撃の牙を剥き出すようになった。植物を荒らし、虫を殺し、ついには小動物にまで手を出し始め、母さんはひどく頭を悩ませていた……らしい。


 というのも、あたしはアインスがそんなことをしているなんて、ずっと知らなかったのだ。


 あたしだけじゃない、ミクルもノエル姉も知らなかった。母さんが皆に心配かけまいと黙って一人で抱え込んで、一人で解決しようと一人で奮闘していたから。


 少しずつゆっくりと距離を縮め、懐いてくれるようになったアインスを、あたしは本物の弟みたいに思うようにすらなっていた。



 ――――愛鳥のニールが、その毒牙にかかるまでは。



 そこであたしは一旦、話を止めた。疲れたんじゃなくて、ぐっと胸にせり上がるものを感じたからだ。ニールの最期を言葉にするのは、やっぱり今も慣れられない。


 カミュがデキャンタから注いでくれた水を飲み、気持ちを落ち着けると、あたしは再び口を開いた。


「ニールは……ウチで飼ってた大きな白いオスの鳥で、あたしが初等部の時に死にかけているところを拾ったんだ。その時はまだ片手に乗るくらい小さくて、親とはぐれたフクロウの雛か何かだと思ってたんだけど、獣医に診せたら驚かれたよ。『ホワイトマギアウルホーク』っていう、マジナには生息してないはずの種類の鳥だったから。でも密輸するほど珍しくない鳥だし、恐らくマギアからの異界便に迷い込んでそのままこっちに来ちゃったんだろうって話だった」


 主旨から外れたことを語ってるというのに、カミュは不平など言わず、興味深そうに頷いては控えめな相槌を返し、急かさない程度に先を促した。


「本当なら、マジナに置いてはおけない品種だったんだ。でも、あたしが見付ける前に他の鳥か動物にひどく痛めつけられてたみたいで、羽根も脚も元通りには動かなくて……とても、マギアの野生では生きていけない、って言われて、可哀想だけど去勢して、役場に届けを出して、ウチで飼う許可をもらったんだ」


「……新たな家族の一員になったんだね」


 カミュの言葉に、あたしは苦笑いした。


「それが、あたし以外には全然懐かなくてさ。威嚇したり攻撃したりはしないんだけど、とにかく気位が高くて。エサちらつかせても触ろうとしたら逃げるし、家にあたしがいない時はどこかに隠れて顔も見せなかったみたい。帰ったらいつもすぐ飛んできて、遅くなった時は尖ったクチバシでつつくわ、ごつい爪生えた脚で蹴るわで、懐かれてるあたしの方が生傷絶えなかったよ。でも……弟みたいに可愛がってた」


 雪みたいに真っ白な体は、いつしか翼を広げるとあたしの背丈など軽く超えてしまうくらいに成長した。鋭い黄金の瞳は凛々しく、先端が湾曲したクチバシは雄々しく、けれど『ニィル』という変な鳴き声と生意気な態度だけは大きくなっても変わらなかった。



 そんなニールとの思い出が、鮮やかに脳裏に蘇る。


 そして、無残としかいいようのなかった最期も。



「いつか生まれ故郷のマギアに連れてって、少しくらい不自由でもいいから空を羽ばたかせてやりたいって、思ってた。なのに……死んじゃった。殺されたんだ、アインスに。弟が、弟に殺されるなんて夢にも思わなかった。信じられなかった、信じたくなかった」


 最初にそれを見た時、あたしにはそれが何なのか、わからなかった。


 ニールの白い体は、皮膚が裏返ったかのように真っ赤だったから。


 刃物傷に似ていたけれど、その傷は等間隔でほぼ隙間なく口を開いていて、大きさも深さも均一のように見えた。


 アインスが魔法を使えることも、また魔法というものの恐ろしい破壊力を知ったのも、その時が初めてだった。けれど、あたしにとってはそんなのどうでも良かった。


 触れられるだけでも痛いはずなのに、それでもニールは最期の力を振り絞ってあたしに擦り寄り、自ら膝の上に乗って、『ニィル』といつものように一つ鳴いた。そして、あたしの腕に抱かれて死んだ。

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