25.獣と胃の狂乱

 精神的に疲れると、あたしはひたすら眠る。眠ればせめてその間だけは、考えなくて済むから。


 インストラクターをこれ以上断り続けたら、依願退職させられるかもしれない。

 ディアラ隊長の意向を拒否してるようなもんなんだから、仕方ないよな。となると、また職探しをしなきゃならないのか。


 資格は多いけど、ハンター系以外であたしにできそうな仕事なんて思いつかない。


 あれが嫌だこれも嫌だって選り好みしてる内に年食って、何の職にもつけないまま路頭に迷って、マンションも売却しなきゃならなくなって、ホームレスになって、くたばって…………なんて、妄想は暗い方にばかり走る。何の取り柄もない自分の末路なんて、考えたくない。


 だから眠った。ひたすらに貪る睡眠は浅くて緩くて、不愉快な微睡みは、逆に身体を重く疲労させた。




「エイル、顔色悪いよ。大丈夫?」


 寝すぎで眠いだけなのに、ファランは女神のように優しい。


「何か調子悪いんだよなあ、朝走らなかったからかな」


 昨日帰宅したのは夜十時前、それから朝九時前まで寝放していたせいで頭も身体も鉛みたいに重い。


 それでも根性で顧客情報の整理をしていると、不意にファランが額に手を当ててきた。優しくて柔らかい手――うっとりと目を閉じていたら、ファランが突き抜けるかってくらいの大声を上げた。


「ちょっとエイル、すごい熱だよ!? 何やってんの、もう!」


「熱? ああ、だからぼんやりすんのかあ」


 そうかそうか、だからこんなに身体が重かったのか。良かった、気弱になってたのも年のせいじゃなかったんだ。


 頷きながら笑顔で振り返ると、ファランはこれまで見たこともないような憤怒の形相になっていた。おかげで血の気が引いて、一瞬涼しくなったよ……ありがとう、友。



 医務室に行って計測してみたら、体温計の数値は39度8分を示していた。



 病院に予約の連絡をしようとしたファランを制して、あたしは早退願いを出して帰宅した。多分、いや間違いなく知恵熱ってやつだとわかっていましたので。


 昔からあたしは足りない頭を使おうとすると、こんなふうに脳が拒否する。一夜漬けでテスト勉強した時も、好きだった先輩に告白する言葉を徹夜で考えた時もこうだった。おかげでどちらも実行に移されないまま、終了。情けないったらない。


 三十路近くにもなって知恵熱出したなんて知れたら恥ずかしくて、依願退職を待たずして自主退職ものだ。


 何とかマンションに到着し、まるで他人の物みたいに自由にならない足をのろのろ動かしながら階段を登っていると、平衡感覚がおかしくなって、気持ち悪くなってきた。


 痙攣する胃を押さえながら鍵を開けば、またもや女の嬌声。


 しかも今回はアインスの部屋じゃなくて、リビングでやり散らかしているらしい。


 おまけに、リビングの扉は開け放たれたままだったもんだから、生々しくくねる女の裸の背中が目に映って――。



 胃が叫ぶ!

 いかん、限界だ!



 あたしはスニーカーも脱がずに上がり込み、とにかくトイレに駆け込んだ。


 ドアを閉める余裕もない。

 辛うじて、眼鏡は外せた。便器のフタも開けられた。


 そこに、あたしは一気に吐瀉物をぶちまけた。奴らに聞こえようが構ってられない。獣なら気にせず本能でやり遂げろ!


 吐き気はそれでも止まらない。


 やばいぞまずいぞ。そういえば、昨日の昼から何も食べてない。なのに胃は揺さ振るみたいに痙攣する。さっき見た女の背中みたいに……うわ、思い出したらまた気持ち悪くなってきた!


 すさまじい勢いで逆流してきたのは、喉を焼くように熱い胃液。吐くものがなくなったらしい。

 食道を酸で溶かすように痛みを伴いながら、あたしは胃液を便器に吐き続けた。



「エイル、どうしたんだよ? ちょ……大丈夫!?」



 アインスが傍に来る気配。


 いや、今はやめろ! 近づくな!


 けれど、声なんて出す暇もない。吐く。吐きまくる。吐き続ける。


 やばい、頭くらくらしてきた。マジ洒落にならん。


「エイル、ねえエイル! しっかりしろよ、おい!」


 アインスの指が肩にかかる。

 視界に奴の素肌が映る――そして肉を覆う、皮膚の生暖かい感触。



 それを感じた瞬間、また激しく胃が律動した。

 危険な予感に、鳥肌が立つ。


 胃液の比じゃない、熱した鉄みたいな灼熱の感覚が喉をせり上がって――あ、ついに来たか、と思ったら案の定で。



 便器に吐き出されたものを、あたしはやけに冷静に見ていた。


 その他の吐瀉物を赤く赤く染め変えるそれは――血だった。


 続いてもう一度、さらにもう一度、胃の収縮に合わせてあたしは血を吐いた。



 怒濤のような胃の乱舞は、余韻代わりに軽く数回震えて、やっと終焉を迎えた。



 良かった、気を失う前に何とか終わった……助かった。



 ぐらつく頭を持ち上げるのもしんどくて、あたしは吐瀉物を流すと、そのまま滑り落ちるみたいに床に転がって涙目で荒い息をついた。くそ、喉がめちゃくちゃ痛い。


 血を吐くなんて、久々だ。昔は緊張重責圧迫やらで吐きまくったもんだけど、気持ち悪くてこんだけ戻したのは初めてだよ。


 気分、最低最悪。誰のせいだ、この野郎!


 あたしは額に置いた自分の手の指先の隙間から、その張本人を睨もうとした。が、眼鏡がないからよく見えない。


 あれ? さっきまでいたよな?

 やけに静かだし、もしや性懲りもなく交尾のやり直しに行ったのか?


 手探りで眼鏡を取って、あたしは改めて辺りを見渡してみた。


 するとトイレの入口で、ブルーグレーの瞳を嵐の前みたいに揺らめかせた、今にも泣きそうな発情猿がパンツ一丁で膝をついている。



「……水」



 血の張りつく喉から絞り出した声は、ざらつきかすれていて、自分でも何と言ったかわからないくらい不明瞭だった。


 けれどアインスには伝わったようで、即命令に従い弾丸みたいに飛んで行き、同じように飛んで戻ってきた。

 それからあたしの上半身を抱き起こして膝に乗せ、ミネラルウオーターのペットボトルをくちびるに当てる。


 猿の世話になるのは気に入らないが、この際仕方ない。


 あたしは一口目で口をゆすぎ、便器に吐き出してから、また水を飲ませてもらった。


 少しすっきりすると、今度は身体の重さと熱さに気が遠くなった。


 ああ、そうだったよ……あたし、知恵熱出してるんだった。



「……エイル、本当にどうしたの? 血なんて吐いて、え……熱いよ? 何これ!? すげえ熱じゃん! 嘘……マジ? 救急車! 病院! 手術!!」



 ああ、うるせえな。頭ガンガンする。頼むから黙ってください。

 あたしは嫌々するみたいに首を横に振った。


「嫌って、何で!? それじゃわかんねえよ! もしかして、何か病気なのか!? 治るやつだよな!? 死なないよな!?」


 確かに病気なんだけど、治るかどうかは謎だけど、死にはしないんじゃないかな。

 てか知恵熱で死亡なんて、恥ずかしくて葬式出せない。



「F β ∑ ∝ г л ↑ м ∫ † ∝ ↑ !! ∞ ∝ † ' ↑ ∞ I м ……∞ ∝ † ' ↑ г м F п м 門 м ……ς г м F ∑ м ∞ ∝ † ' ↑ г м F п м 門 м F г ∝ † м , М I я …………(そんなのやだ!! 死なないで……置いてかないで……お願いだから、俺を一人にしないで、エイル……)」



 アインスのよくわからない懇願は、何故か疲弊しきった身体に優しくしみて――そのマギア語のお経に引導を渡されるかのように、あたしの意識は深く深く落ち沈んでいった。


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