26.大人に成れず子供に戻れず

 熱い、ひたすら熱い。


 なのに寒くて堪らない。血管に熱湯と氷水が交互に流れてるみたい。


 でも五感はすごく遠くて、自分がどんな状態なのか、まるでわからない。



 母さん、お母さん。すごく辛い。

 あたし、死んじゃうのかな?

 怖い、怖いよ。お母さん、傍にいて。


 お父さん。お父さん、お父さん、お父さん。

 嫌だ、死んじゃ嫌。いなくなっちゃうなんて、嫌だよ。


 ニール。ニール、待って。行かないで。

 お前もあたしを置いていくの?

 ずっと一緒だって、いつか故郷を見せてあげるって、約束したのに。


 寂しいよ。苦しいよ。みんな、傍にいてよ。


 治るまでだから、治るまででいいからお願い。

 一人にしないで…………あたしの傍にいて。




 頬を流れる涙のむず痒さに、あたしは目が覚めた。


 現実へと出迎えたのは、暗い寝室の天井。それを見てあたしは、自分がもう子供じゃなくていい年した大人なんだってことを思い出した。


 一人はこんなとき、辛い。痛感する。


 悲しい夢の余韻がざらりと胸をこすり、あたしはまた泣きそうになった。



 と、そこへドアが開いて――誰かが入ってきた。



「あ、エイル、起きた? じゃ何か食べて、薬飲まなきゃだな」



 よく見えないから姿は確認できないけど、間違いなくアインスの声だ。


 何でここにいるんだ?


 だって、アインスはマギアにいて…………ああ、そうだった。今は、あたしの家に住んでるんだっけ。


 そんな当たり前のことも覚束ない頭でぼんやりしていると、アインスは冷蔵庫から持ってきたらしいゼリー飲料を持ってきて、トイレの時と同じように口にくわえさせた。

 押し出されるゼリーは冷たいだけで、味もわかりゃしない。三分の一も飲んだところで、あたしは首を横に振って拒否の意志を示した。


「んだよ、もっと飲みやがれ! じゃねえと元気になんねえだろうが!」


 バカは手加減を知らない。猿の手で容赦なく流し込まれたゼリーは、あたしの口に納まり切らなくなって溢れてこぼれた。


「うわ、悪い! モルガナに無理させんなって言われてたのに、いきなりやっちゃったよ」


「お母さんに、電話したの?」


 熱にうかされてるせいで、子供の頃の呼び方がうっかり口を衝く。けれどアインスは笑ったりせず、ゼリーを拭きながら頷いた。


「だって、どうしていいかわかんなかったから。俺、看病なんかやったことないし、病院は嫌だっていうし」


「今、何時?」


 妙に暗い室内に、あたしは首を巡らせた。早退したのは三時くらいだったから、四時には家に着いたはずだけど。


「もう夜の十時」


「仕事は? 朝からなら、もう寝なきゃなんないんじゃない?」


「休んだ。今夜も仕事だったけど、シファーさんが何とかするって。何とかできないっつっても行かねーよ」


 あたしはため息をついた。よくわからないけど、休んでも平気らしい。ならいいや。



「……エイル、マジごめん。具合悪いなんて知らなくて、俺、バカやっちゃって」



 あたしはリビングでまぐわう獣の交尾を思い出して、また気持ちが悪くなった。けれどもう、胃はぴくりとも動かない。こちらもあたしと同じく、お疲れらしい。


「そんな気なかったんだけど、相手が勝手に盛り上がってきて……っていうか、俺もちょっと悪戯心あった。エイルに見せ付けてやったら、どんな反応するかなって、面白がってた。そしたら案の定、すげえ勢いで家に飛び込んで来たろ? こりゃ久々に殺られるなって覚悟決めたら、トイレ直行便で…………別の意味で心臓止まりかけた」


 悪戯にも程があるだろ、バカ猿。面白くも何ともねえよ、アホ猿。


 でもそれを口に出すのもしんどくて、あたしはただ黙っていた。


「トイレもリビングもドア開けっ放しだから、すっさまじいゲロゲロ聞こえるし、嫌がらせにしちゃ長いし。血まで吐いてるし」


「そういえば彼女、帰ったの? 怒ってなかった?」


 後ろ姿しか見ていないけど、若くてスタイル良さそうな雌猿のことを聞いたら、アインスは笑った。


「彼女じゃねえよ。一応、同僚。グラズヘイムの中じゃ、ご指名ナンバーワンの女性キャストなんだって。円滑な関係を築くためには、公私含めていろいろとお付き合いが必要なの。純情なエイルちゃんにはわかんないかもだけど」


「ふうん、大忙しだね」


 嫌味でもなくあたしが感心したように呟くと、アインスは顔を近付けてきた。


「そ、大忙し。アインス君の身体は公共の皆様のもの、でも心はエイルちゃんだけのものだから、安心しなさい」


「身体と心は違うの? 皆のものなのに、独り占めしたら怒られない?」


 何だか熱のせいで、言葉遣いだけでなく思考までも幼児返りしてる気がする。いつもの嫌味にも、怒りは湧かなかった。


 アインスは不思議そうに見上げるあたしの髪を撫でて、そのまま汗で湿った頬のラインをなぞった。


「エイル、泣いてた。うなされながらお母さんって。傍にいてって」


 途端に、あの夢を思い出して悲しくなり、再び涙が溢れてきた。

 するとアインスは、空いている方の手であたしの手を軽く握った。


「モルガナが、エイルは熱出したらすげえ寂しがるから、傍についてろって。俺じゃ手に負えなくなったら、また電話しろってさ」


 母さんの顔を思い出す――今の太っちょな母さんじゃなくて、昔のまだ痩せていた頃のお母さん。

 時間が奪った、あたしのお母さん。


「ねえ、俺じゃ無理? モルガナに電話して、来てもらおうか?」


 あたしは首を横に振った。母さんはもう、あたしが傍にいてほしいお母さんじゃないから。


「…………アインスでいい。我慢する」


「何、その我慢って。可愛くねえわ、やっぱ」


「可愛くなくていいもん。どうせ可愛くないもん」


 小さく嗚咽を洩らしながら泣くあたしに、アインスはため息をついて軽くキスをした。


「うそうそ、可愛い。エイルは世界で一番可愛い。泣いてても可愛いけど、笑ってる方が可愛い。だから、早く元気になってよ。いつものエイルに戻って、笑ってよ。ね?」


 それからアインスはあたしを宥めながら、何度も優しいキスをした。



 そのうちにマギア語が混じりだして、幼児の頭には意味不明の異国の言葉は子守歌みたいに心地よくて――――あたしは導かれるように眠りに落ちた。


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