【距離:依然として近し】フルボッコにし合えるレベル
14.折れた翼は孤独色
そして翌朝。
膝がすっかり復活したのをしっかり確認してから、あたしは朝焼けの町を走った。
夜明けの清浄な空気を取り込み吐き出していくと、体内に蓄まった澱が排出されていくようだ。
代わりに新鮮な真新しい空気が、内臓に染み渡る。
冷えた爽快な感覚を存分に味わいながら、あたしはさらなる癒しを求めて、美しい河川敷に向かって疾走していった。
ランニングを終えて帰宅しても、アインスはまだ眠りこけていた。
もちろん起こすなんて野暮な真似はしませんよ。
静かなのは良いことだと安心して、いつも通りに朝の時間を過ごして仕事に出かけましたとも。死ぬまで寝ててくれることを期待しながら。
今日は祝日、おかげ様でフィットネス日和のため、キタセンことキタエマセンターは満員御礼。
あたしとファランはスケジュールを確認しながら、電話対応やら飛び入り客の応対やらに追われた。
何でこんな忙しいんだと不思議に思っていたら、常連客から昨日刊行された地元の無料情報誌に、キタセンが大きく取り上げられていたのだと教わった。なるほど、余計なことしやがって。
薄着のシーズンになったのもあって女性客が目立ったけれど、きたる夏季休暇に大きな活動をしようと目論む者達のハンターコース登録も多かった。
「この時間でもう新規十五件突破だってよ。どいつもこいつも宣伝に躍らされすぎだろ。今からやったって無駄だっつうの」
ため息をつきながら顧客名簿を整理していると、ファランが肘で小突いてきた。
「無駄だなんて言っちゃダメでしょ。全くもう、受付とは思えない発言だねえ」
「だって無駄じゃん。水着着たいから早く五キロ落としたいとか、今年の夏は大物仕留めて一攫千金とか、ありえねえっての。山にでも籠もって修業すりゃ一月で削げ落ちるし、クマ相手に実戦経験積んだ方がよっぽど身になるわ」
やっと客の波が引いて一息つく暇ができたら、愚痴混じりの軽口をこぼしたくもなる。ファランは声を上げて笑った。
「ホント、エイルっておっかしいこと言うね! じゃそんなお疲れのクライゼさんに、お茶持ってきてあげる」
「嘘つけ。どうせ彼氏の働く姿に熱い眼差しを送りに行くんだろ!」
「ちょっとだけだよぅ」
そう言って舌を出してみせると、ファランは弾むように駆けていった。
少しの時間でいいから恋人に会いたい、一目見たい――そんな思いに満ちた後ろ姿を見送って、あたしはため息を洩らした。なんてけなげで、可愛らしくて、奥ゆかしいんだろう。
羨ましい、と心底思う。
そんな相手に巡り会えて、そして相手にも想い想われて。それってどんな気分なんだろう。どのくらい幸せなんだろう。理解も想像も追いつかなくて、何だか悲しい。
気付いた時には、あたしには運動することが恋人だった。
好きになった人は何人もいたし、恋い焦がれて眠れないなんて夜もあったけど、まぁ両想いになれたこともなければいい雰囲気にすら持っていけた試しもないし、ましてやお付き合いにまで至った経験すらない。
何より、恋心のドキドキ以上に、身体を限界まで使って味わう激しい心臓の鼓動を愛してた。
けれど、一生を共にするはずだったその伴侶は、自分の片羽を引きちぎりあたしを生かした。
優しくも憎い、恋人。
今でも体中に余韻と爪痕を残す、忘れたくても忘れられない恋人。
あたし自身の中に、確かに存在した恋人。
死んだわけじゃない――でも背中で翼を広げる彼はもう、あたしに自由を与えてはくれない。
予約客を二人捌いたところで、ようやくファランは戻ってきた。
「まあまあ、お早いご帰宅で」
口調とは裏腹に歯を剥いてやると、ファランは軽く舌を出した。くそ、可愛いじゃねえか。
「ごめんごめん、ちょっと話す時間あったからさ。このお茶はあたしの奢りってことで、許して?」
小首を傾げて上目遣い――常套の小悪魔テクに、あたしは簡単に陥落してしまった。
「よし、じゃ乳揉ませてくれたら許す!」
「またですか、エロオヤジなんだから!」
「いいじゃん、減るもんじゃなし。何ならあたしのも揉ませてやろう」
「やあよ、エイルの胸なんて背中と変わんないじゃない」
うわこいつ、可愛い顔してずけずけとひどいこと言うじゃないですか!
しかしあたしの文句を遮るように、ファランは嫌らしい笑いをたっぷり口元に湛えて言った。
「それにぃ? 彼氏に悪いじゃないですかあ」
「はあ? 彼氏?」
唖然呆然として素っ頓狂な声を上げたあたしに、ファランも唖然呆然とする。
「あ、あれ? 一昨日来た男の子、ほらエルフの……あの子がそう言ってたんだけど。キスしてたし、名字も違うからあたしてっきり……」
脱力するあまり、あたしは受付カウンターに崩れるように伏せてしまった。いくら三十路間近で焦ってたって、猿でなく人間を選びますよ!
「…………ガキの冗談、真に受けてんじゃねえよ。あれ、弟。名字違うけど、血も繋がってないけど、弟。弟っていうのも嫌だけどそうなの。わかった?」
ファランは頷いてから、視線を空に踊らせた。
あら、何かしら?
すごぉ〜く嫌ぁ〜な予感。
「ファランちゃ~ん、まさかと思うんだけどぉ?」
困ったように笑いながら、ファランは柔らかくウェーブした栗色の髪を掻いた。
「…………みんなに喋っちゃった」
量感たっぷりの乳を揉みに揉みまくってから、ファランには出会う職員に片っ端から誤認謝罪をさせて、何とかあたしの気は済んだ。
が!
本当にあの野郎! 疫病神にも程がある!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます