第3話「最初で最後のチャンス」
振り向いたラルスは、目も覚めるような美の結晶に再会する。
「やめてください、少年。ハインツ殿より速く剣が抜けても……その切っ先がハインツ殿に触れるより速く、私は君の腕を切り落とせます」
音もなく開かれたドアの前に、リンナ・ベルトールが立っている。
その手はまだ、腰の剣へと伸びてはいない。
だが、言い表せぬ
怒りに任せて、剣を抜いてしまった。
辛うじて絞り出した謝罪の言葉が、どかっと椅子に沈んだハインツへ吸い込まれる。
「……すみません、とんだ失礼を。俺は……なんてことを」
「ふぅ、もういいだろう! 出ていきたまえ、ラルス君。父上を
「すみません、でした」
剣を
だが、退出しようとするラルスをドアの前で、リンナが引き止めた。
彼女はそっと手でラルスを制して、そのまま横を通り過ぎる。ふわりと白い長髪が空気をはらんで、ラルスの
「ハインツ殿、今……自分でおっしゃりましたね? 彼を侮辱したと」
「それは、言葉のあやだ。誤解というものだよ、リンナ君」
「少年の怒気を荒げた声は、外の廊下にも響いていました。彼の父君を侮辱したのではないですか? ……私には心当たりがあるのですが」
「いい加減にしたまえ、リンナ君!」
先ほどとは比べ物にならないほどの緊張が、場を包んだ。
ラルスがハインツと対峙した時よりも、室内の空気が重く冷たい。まるで別物だ。それは戦慄さえ感じさせる程の息苦しさを連れてくる。
そしてラルスは見た。
先に目を逸したのは、ハインツだった。
そしてリンナは言葉を続ける。
「ハインツ殿、彼の父君の名は……アルス・マーケン氏ですね? そう聞こえましたが、間違いないでしょうか」
「そ、そうだ。そのことと君は、関係がない」
「関係なくはありません、ハインツ殿。
そして、リンナはラルスを振り返った。
剣と手荷物とを抱えたまま、ラルスは固まってしまう。
リンナの黒い瞳は、じっとラルスを見据えてくる。物言わぬ双眸の光は、ラルスの中に不思議な希望を植え付けていった。
「少年、ハインツ殿の話にはまだ続きがあります。アルス・マーケン氏が我がゾディアック黒騎士団を去った後……
「……え? そ、それって」
「それが私です。母は騎士を引退し、女手一つで私を育てました。私は父のことに関して、なにも聞かされてはいませんが……ハインツ殿が根拠に欠く噂話を広げていることを
ラルスは驚きの余り、目を丸くしてしまった。
苦々しい表情で両肘を執務机に突くや、ハインツは組んだ手と手の上に
ラルスが抜き放った真剣よりも、遥かに鋭く光る
「少年、ハインツ殿の名誉のために言っておきますが、この方とて常闇の騎士、現在十三人しかいない我が騎士団の最精鋭です。ハインツ殿より速く剣を抜ける者など、数えるほどしかいないんです」
そう言って、リンナは本当に指折り数え始めた。
細く白い指が、何度も折られて折り返す。
十人以上数えたところで、これはたまらんとばかりにハインツが声を
「もういい、やめたまえリンナ君……や、やめて……」
「ハインツ殿、もう少しで数え終えますから。……よし、そういう訳です少年。このハインツ殿に勝る剣術使いなど、二十七人しかいません」
その言葉を真顔でリンナが放った瞬間、ハインツの様子が激変した。
「やめてって言ってるでしょう! ちょっとよしてよね、もうっ! アタシがそれじゃ、事務仕事や財務整理だけが取り柄の騎士に見えちゃうじゃない! っとにもぉ、ヤな
突然、ハインツは立ち上がるや身をくねらせた。そのヒステリーな声音が、先程の不遜な態度を豹変させる。
「アタシだってね、好きでやってるんじゃないわよ! でも、みんな馬鹿なの、
「……だ、そうです。ごめんなさい、ハインツ殿に代わって私から謝罪します。ええと……アルス・マーケン氏のご子息。少年、名は?」
「ラルス・マーケンです」
「ラルス、ですか……ふむ。今朝程城門前で会いましたね。改めて名乗りましょう。リンナ・ベルトール、オフューカス
「ど、どうも」
リンナが小さな手を伸べてくるので、おずおずとラルスは握手を交わす。
柔らかな肌がひんやりとしていて、まるで
リンナは無表情で、握った手を確認するように上下に大きく揺すってから離す。そうして向き直る先では、
「これというのもアタシに仕事運がないからよ! 来る日も来る日も、書類、書類! 手続き、手続き!」
「私たちオフューカス分遣隊の方でも、お手伝いさせていただいてますが。そういえば、その時のお手当がまだ――」
「リンナ! アンタねえ、アタシに恩を売ろうったってそうはいかないわよ。……そ、そりゃあ、ちょっとあの話は言い過ぎたわ。アンタが渦中の私生児かもしれないんですものね。でもぉ、女の子って噂話は好きなのよぉ! 目がないのよぉ!」
いや、あんたは男だろう……そうラルスは心の中で
リンナはリンナで「女の子とは、そうなのですか……参考になります」と
なぜなら、ゾディアック黒騎士団への入団は、絶望的だからだ。
終わった……素直にそう思った。
「あの、それで俺は……本当にすみませんっ! 軽率でした! 反省してます!」
とりあえず、頭を深々と下げた。
心から悪かったと思ったし、謝罪の気持ちを表現する方法がこれしか思い浮かばなかった。軽率、そして軽挙だったと思う。父アルスは、多くの言葉をラルスに残してくれた。剣を軽々しく抜くなかれ、剣を抜くは覚悟、そして決意である……そう何度も言われていたのだ。
父への侮辱に怒るあまり、父の教えに背いたのだ。
そして、屈辱的な噂話には、リンナの存在という信憑性が裏付けられていた。
それでも顔をあげたラルスは、じっとリンナを見詰めて思わず呟く。
「……お姉さん、なのかなあ? あんまし似てないな」
「ん? どうしましたか、少年。私の顔になにか?」
「あ、いえ! きっ、綺麗だなと思っただけです!」
「そうですね。さて」
この女、なかなかにいい根性をしている。
さらりと一言、そうですね、だ。
しかし、それが事実だからしょうがない。そして、肯定しておきながらリンナは、どうやら自分の美貌に興味がないようだ。また、自覚もなさそうである。
「ハインツ殿、提案があります。彼はまだまだ未熟なれど、筋の良い少年と見ました。
「フンッ! なによアンタ、偉そうに」
「この少年は、我がゾディアック黒騎士団でも二十七人しかいない、ハインツ殿より速く」
「うっ、うるさいわね! 繰り返すんじゃないわよ! ……でも、はいそうですかって訳にはいかないわ」
「無条件でとは言いません。公平な機会を……こういう噂も私の耳に入ってきます。ハインツ殿は仕事の
「それは……その、まあ、いいわ! 入団テストをしてあげる! それでいいんでしょ?」
「ありがとうございます、ハインツ殿。では。……私の目に狂いがなければ、この少年は磨けば光る原石です。なにより、普通なら磨けども宿らぬ輝きを、すでに
涼やかな空気を残して、リンナは行ってしまった。
ドアを出て振り向き、完璧な作法で頭を下げ、そして去ってゆく。閉じられたドアで隔てられて尚、その
再び二人になったところで、ハインツは頭をクシャクシャを
「よし、では不本意だが……いたしかたない。ラルス君、入団テストを午後から行う」
「は、はいっ! ありがとうございます!」
「いや、なに……フフ、フハハハハハ! 思い知るがいい、
「あ、はい。えっと、でも」
「言うな! そう、私より強い騎士などゴマンといるのだ。正確には二十七人で、悔しいことに先程のリンナ君もそう。しかぁし! 今は
「はぁ」
不気味な笑みを湛えつつ、身を揺すってハインツが笑う。
だが、その不穏な笑顔はもう、ラルスの目には入っていなかった。
自分の力を、試してもらえる。腕前を披露する機会が与えてもらえる。それは、
自然と身体が熱くなり、逸る気持ちに闘志が焦れる。
「よーし、よしよし! いいぞ、いよいよだ……アゲて行こうぜ、俺っ!」
一人気合を入れるラルスは、その時気付いていなかった。
気合を入れるラルスを見ながら、ハインツが不気味にほくそ笑んでいることを。
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