白猫ものがたり
holyhori
第1章 マタタビスタ共和国 1.シュウ
1. シュウ
気が付くと横たわっていた。寝ぼけまなこに映るのは天井、やけに低い天井。立ち上がったら、頭をぶつけてしまいそうだ。視界の左側から太陽の光が差し込む。朝なのだろうか。
コウは自分が身に着けているものを確認した。制服を着ている。白いワイシャツにえんじ色のネクタイはしめたまま。濃紺のブレザーに、グレーのズボン。靴は履いていないが・・・。
ここは一体どこ。冴えない思考、そして眠気。コウはまだ起き上がらない。寝具がやけに心地よくてあたたかい。ガサゴソと自分の着ているものを確かめてはみたものの、まるでまだ夢の中にいるかのように意識はぼんやりとしたままだ。
右を見て、左を見る。この部屋には何もない。自分が寝ているこのベッド以外は。
かちゃり、ふいに扉が開く。小さな扉だ。扉の向こうからすっと現れたのは白い猫だった。その姿を確認した瞬間に、急激に記憶がよみがえる。
そうだ猫!僕は猫を追いかけていたんだっけ。二匹の二足歩行で歩く猫を。そして人間の言葉を話す猫を!
白猫は静かに、そして微笑みながら近づいてきた。そして語りかける。
「お目覚めになられたようですねコウ様」
一気に目が覚めてしまったコウ。覗き込むように上から見つめる白猫。(このネコは昨日の猫だろうか。)その顔には微笑みが浮かぶ。
確かに微笑んでいる。大きな瞳は透き通るように青く、白い毛はふわふわとしていて、とてもやわらかそうな美しいオフホワイト。額には三日月の形をしたカナリアイエローの紋様があった。
得体のしれない状況下にいることも一瞬忘れてコウは「可愛い」と思ってしまった。
白猫はエメラルドグリーンのワンピースのような服を着ていた。
「コウ様って、君は一体」
しゃべる猫に、とっさに返せた言葉はそれだけだった。横たわっていたコウは体を起こし、ベッドサイドに腰掛けるような姿勢をとる。白猫は答える。
「わたしはシュウと申します。漢字ですと
カンジで?キョウシュウのシュウ?コウの頭は混乱するばかりだった。猫が人間の言葉を話す。日本人である僕が容易に理解できるのだから、おそらく日本語で間違いないだろう。そして「カンジ」というのはあの「漢字」で、キョウシュウという言葉はあまり耳慣れないが、故郷を思う心を示すあの言葉だろうか。
無意識に目玉をくるくるとさせ考えを巡らせるコウをシュウと名乗る白猫は優し気な視線で見つめている。
「コウ様、よく眠れましたでしょうか。寒くはありませんでしたか。我々もコウ様たちと同様、寒さにはあまり強くないのですが、なにぶんコウ様の住む世界とは気候も異なりますゆえ」
「あ、う、うん大丈夫。だいぶ深く眠っていたような気がする。いや、え、えと、それより、ここは一体どこなんだい!?」
猫と会話をしている不思議な感覚を存分に味わいながら、いま現在の最大の疑問をぶつけてみる。これが夢だったら、これほど楽しい夢はないのに。どうやら夢ではないようだ。その証拠に先ほどから、やけに空腹を感じている。なぜこんなときにこんなに腹が減るのだろう。
「ここは私たちの世界。今を生きる私たちの世界です。地球であることには違いありません。詳しくは、我々の長である。スピカ・ゼニス・ラマラウより後ほどご説明させていただきます」
「君たちの世界・・・地球であることに違いはないって、つまりそれはどういうこと!僕は一体どこにいるの?帰してくれ!お願いだから帰してくれよ!」
目の前の愛くるしい白猫を責めるには気が引けるのだが、いまはそれどころではない。帰宅途中に文字通り失踪してしまった自分を探して、親や友達は大騒ぎをしているかもしれない。にわかにそれらのことに思い至り、不安と焦りが沸き上がる。
ここがどこであれ、今が朝ということであれば、昨晩は自分の家に帰っていない。いくら日頃のんびりとした生活を送っている両親とはいえ、何の連絡もなく息子が帰ってこなければ、ただごとでは済まないだろう。まずは友達のバンちゃんに連絡がいく、彼はただちにリョウタとダイゴに連絡するだろう。学校にも連絡がいっているかもしれない。家族やバンスケ、リョウタ、ダイゴはもちろん、先生や、もしかしたらクラスの数人や、部活の仲間も自分を探して眠れない夜を過ごしていたのかもしれない。
その中に恵子ちゃんもいるだろうか。ふと一人の女子を思い浮かべ、胸が熱くなった。泣きながら、僕の名前を呼ぶ姿の想像は、それはまったく妄想だけど。
ぐるぐると脳が回転しだした。もし自分がパソコンだとしたら熱で故障してしまいそうなほど脳内のハードディスクがフル回転をしているような感覚だ。叫んだ後に右手を額に当てて急に黙り込んだ僕を目の前の白猫は見つめている。充分に間を置いてシュウは口を開いた。優し気な口調は変わらない。
「コウ様、ご不安になられるのも理解いたします。そして、いまおそらく頭の中でお考えになられていたことについては何の心配もありません。なぜならコウ様の世界はいま止まっているからです」
まったくもって悪意を感じさせないシュウの瞳には、この得体のしれない状況下においてもわずかに安堵を覚えてしまうような不思議な雰囲気があった。シュウは続ける。
「コウ様、お腹が空いているでしょう?この世界に来られてから半日以上、深くお眠りになられていましたので」
「そんなに寝ていたの。お腹はまあ空いているけど」
先ほど大きな声を出してしまったことを少し恥じていた。自分が囚われの身だとして、もしシュウと名乗るこの猫が誘拐を企てた悪の組織の一員だとしても、
「そうですよね、気を失われてから長い時間が経ちましたから。センター長のところへと向かう前にまずは食堂へまいりましょう。料理長が準備をして待っておりますゆえ」
「センター長?」
「あぁ、失礼いたしました。我らが長のスピカ・ゼニス・ラマラウのことです。ここはマタタビスタ共和国内の中枢、にゃんこセンターの内部なのですが、導きの
「うーん、よくわからないけれど僕は君を信じていいのかな。ひどく混乱しているんだけど」
とりあえずはついていくしかないのだが、不安はある。ふさふさした可愛らしい猫とはいえ、いったいなぜ自分がいまこのような状況下に置かれてしまったのかということも、猫がなぜヒトの言葉を話しているのかということも、スピカなんとかというにゃんこセンター長にしても、理解したり、判断したりするには情報が少なすぎる。安全と言い切れるのかもわからない。
「そうですよね、理解いたします。でも、これだけは信じていただきたいのですが、このにゃんこセンター内でコウ様の身に危険が及ぶとういうことはまずありません。やはり詳しいことに関しては、センター長よりご説明させていただいたほうがよろしいかと思いますが、我々はコウ様にお力添えをいただきたくこちらの世界に来ていただいたのです」
「お力添え?」
「そうです。私たちが抱えている問題を解決するために何卒お力添えをいただきたいのです、突然半ば誘拐のような形でこちらの世界に来ていただいたことについてはお詫び申し上げます。本当にすみませんでした。ですが、切迫した我が国、いえこの世界のある事態の解決のためコウ様のお力がどうしても必要なのです」
先ほどまでの優し気な声色は変わらないが、その表情、語り口にはシリアスなものが漂う。
「うーん、わかったよシュウ。にわかには君の言うことを信じることは難しいのだけれど。まずはそのセンター長の話を聞こう。なぜ僕なのかはわからないけど」
僕はそんな特別な人間じゃない。特別な能力があるわけでもない。僕みたいな人間はそこら中にいるだろう。なぜ僕なのだろう。
ただ、どうやら捕らえられたというよりは招かれたというニュアンスが強いようだ。「このセンター内では危険が及ぶことはない」という言い方は気になったが、この場でシュウを詰問しても意味がないような気がした、と同時にこの白猫のことはもしかしたら信じてもいいのかもしれないと思い始めていた。
「まいりましょう、コウ様」
「うーん、わかった。いこうシュウ」
一瞬ためらう素振りを見せたが、コウはシュウについていくことにした。
立ち上がる。天井が低い。頭をかがめて動かなければならなかった。昨日まで履いていたスニーカーがベッドの足先のほうに並べてあった。
にゃんこセンターというからにはシュウのような猫がたくさんいるのだろうか、だとしたら天井が低いのも納得だが、扉まで小さいのには困った。四つん這いになり、膝をするようにして部屋を出た。「すみませんコウ様」とシュウは申し訳なさそうにした。「大丈夫」と答えるコウ。この小さな扉の部屋に僕は自力で来たのだろうか、気を失った僕を誰かが運んだのか。扉を出ると左右にゆるやかな傾斜の通路があって、右手側が上階に通じているようだ。シュウはそちらに向かって歩き出した。何でできているのかわからないが靴を履いている。
廊下は先ほどの部屋よりは天井が少し高いので、コウもぎりぎり立って歩くことができた。立ってみるとシュウの背丈は自分の腰ぐらいまでしかない。「どうぞ、私の後をついてきてください」というシュウの背中を見ながら、コウはいつかテレビで観た宇宙人にさらわれた人の話を思い出していた。宇宙人にしてはずいぶん可愛い後姿だけれど。
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