第1話 《ぁゃ》の部屋でぼんやりする紅子ちゃん

 ベッドに身を投げた。ベッドのバネは強くしなやかで紅子の衝撃を受け止めた。

 枕を引き寄せ、抱き締めて顔を埋める。真っ白な枕カバーは、クリーニングに出したのかのりが効いていて硬く、何の香りもしなかった。


 今頃こうして《ぁゃ》を抱き締めているはずだった。


 周囲を見回す。


 ベッドは、おそらく客室と同じなのだろう、真っ白なシーツ、真っ白な枕カバー、真っ白な掛け布団、ベージュの薄い毛布だ。素っ気ない。

 けれど、机の上のノートパソコンはピンク色をしていて、棚には漫画が並べられている。


 《ぁゃ》はここで確かに生活していたのだ。



 客室はちょうど七部屋しかなかった。本当に一人一部屋の計算だったらしい。

 来客が八人になったことで部屋が不足した。

 慎悟は「どの部屋もツインもしくはダブルです」と言ったが、こんな状況で相部屋になりたがる者はいなかった。


 慎悟と《ぁゃ》――綾乃はどこで寝泊まりするのかと訊いたら、先ほどの部屋――食堂の奥のドアを開けた向こう側に厨房、厨房のさらに向こう側には従業員室が二部屋ある、と言う。

 一部屋は綾乃の祖父母が使っていた部屋で、今は慎悟が使用している。

 もう一部屋は長期休暇の時だけ住み込みで雇っていたアルバイトのための部屋で、つい数日前までは綾乃が使用していた。


 《P2》のメンバー一同は、紅子を綾乃の部屋に割り当てることにした。

 「紅ちゃんだけは紅ちゃんだと知れている以上、わざわざ客室でスリリングな夜を過ごす必要はないからネ。隣にあやのお兄ちゃんがいるならばさらに安全でしょう」と言ったのはシズカだ。

 客室で過ごす他の六人は嫌そうな顔をしたが、表立って反対する者はいなかった。


 客室は七部屋ともこの別荘の二階だ。

 慎悟がメモ用紙に簡単な二階の見取り図を描き、そこに七人がああでもないこうでもないと議論しながら自分の仮名を書き込んだ。

 喋っている様子だけを見ていれば、《P2》で毎晩繰り広げていた雑談と何ら変わりないのに――紅子にはもはやそのやり取りの内容を聞き取る気力すら残っていなかった。


 慎悟は、七人に部屋の鍵を渡し、二階を簡単に案内した後、ホールで一人バッグを抱えてたたずんでいた紅子を連れて奥へ入った。

 食堂の奥のドアを開け、厨房を抜け、従業員専用のスペースに移動した。


 歩きながら、慎悟は「死んだ人の部屋を使うのは怖くないですか?」と問うてきた。

 紅子は首を横に振った。

 最後に《ぁゃ》と一対一でスカイプを使って会話をしていた時には、紅子は《ぁゃ》と同じ部屋で寝ることになっていた。


 《ぁゃ》の部屋を案内した後、慎悟は「たぶん僕しか出入りしないと思うけど、念のため」と紅子に鍵を渡しつつ、こんなことを囁いた。

「紅さんには、綾乃から手紙を預かってるんです。他の六人にはないんですけど、紅さん宛だけはあって――後でこっそり渡しにきますよ」

 何のことか分からなかったが、とりあえず、頷いた。



 《ぁゃ》が死んだ――もうこの世にいない――《P2》やスカイプを起動したりツイッターのタイムラインを見たりすればそこにいそうなのに――というのもすべて、《ぁゃ》がインターネットで知り合った存在だからだろうか。実体のある人間として存在を感じていなかったから、『死んだ』というより『消えた』と感じているのだろうか。

 誰も彼もみんな、実体のない存在だったのだろうか。だからみんなあんなに冷ややかだったのだろうか。


 みんなに会いたくてここまでやって来た自分は、いったい、何だったのだろう。


 枕に顔を沈め、目を閉じた時、ドアをノックする音を聞いた。


「紅さん? さっきの、綾乃の手紙を持ってきたんですけど」


 慎悟の声を聞いて、おもむろに顔を上げ、ドアを見た。

 つい数分前の話なのに忘れていた。よほど疲れているらしい。


 重い体を起こす。手紙を受け取って読んだらすぐ従業員用の浴室を使わせてもらって寝よう――そう決意して、ドアノブを回す。


「……疲れてる、みたいだね。大丈夫――じゃないよね」


 言ってから、慎悟が「あっごめんなさい」と謝った。


「初対面なのに馴れ馴れしく――」

「あーいえ、むしろタメ語でお願いします。なんか、あたしのが、気まずいってか、何ていうか――慎悟さん、うちの兄貴より年上だと思うし、あたし、マジ、高校生なんで。敬語とか、よしてほしいす……」


 慎悟が頷く。


「そう……だね。ごめんね、逆に気を使わせちゃったかな。ありがとう、僕も、妹がいたから、その方がちょっと気が楽かな」


 真面目な人だと思う。最初から無礼千万の《P2》の面々と比べたら、なんと紳士なのだろう――とはいえ、《P2》の面々に丁寧な扱いを受けたらそれはそれで困惑したかもしれない。


 ふと、《ぁゃ》とのやり取りを思い出した。

 《ぁゃ》は紅子と二人きりになるとたまに自分の兄の話をしていた。《ぁゃ》も紅子も兄一人妹一人で、何となく通じ合うものがあったのだ。


 紅子と紅子の兄は八つ離れている。第二の父のような存在であり、過保護で鬱陶しく感じる方が多い。

 一方、《ぁゃ》と《ぁゃ》の兄はずいぶんと仲が良さそうで――というより、《ぁゃ》が少しブラコン気味のようで、文句を言っているようでいても、自慢をしているように見えたものだった。


 その兄が、今目の前にいる慎悟か、と思うと、彼が急にとてつもなく頼もしい人物に思えてくる。


 同時に、《ぁゃ》が――水村綾乃という女性が確かに存在していたことを、彼を通じて感じ始めた。


「これだけ渡したかったんだ。今日はもう、ゆっくり寝てね。あとは、明日の朝起きてからシャワーでもいいんじゃないかな。手紙もね、ちょっと分厚いみたいだし、今すぐ読まなくても大丈夫だと思うよ。どうせ、綾乃本人は、もう、いないから。返事はいらないはず」

「――あやが、」


 ピンクの封筒を受け取りつつ、紅子は呟いた。


「なんだかんだ言って、お兄ちゃんにはすごい甘えちゃってるから、申し訳ない、って。お兄ちゃんが結婚したりしたら、すごいショックだろうな、って。言ってました」


 慎悟が沈黙した。目を逸らし、何もない方を見て、「そう」とだけ言った。その声が少し震えて聞こえた。


「あと――そうだ。あやの写真とかないすかね? あたし、あやと会って喋りたかったから……、このまんま、顔を知らないで帰るの、なんか、嫌っす」


 数秒間を置いてから、「あるよ」と返ってきた。


「遺影に使ったのと、同じ写真だけど……一応、埼玉の自宅にある遺影より、一回り小さいのを――やっぱり、綾乃も、紅ちゃんにだけは会いたかったんじゃないかな、と思ったから……こっそり、持ってきてあってね」


 途切れ途切れの言葉に、ひとつずつ、相槌を打つ。


「綾乃は――写真を撮られるのが、本当に嫌いで。遺影を決めるのにも、すごく苦労して――結局、綾乃が専門学校を卒業した時の旅行の写真を引き伸ばしたから、ちょっと古いしあらいんだけど、ね……」

「あー……あやって、二十三歳、でしたっけ。なんか年齢の話ってぜんぜん話題に出ないから、みんな本当は何歳なのか、細かいトコ、よく分かんなくて……」

「そう。享年二十三歳。僕より三つ下だった」


 そこで慎悟は「ごめん」と言い、急に踵を返した。


「部屋に取りに行ってくるから、そのまま待ってて。すぐ戻るよ」


 紅子は《ぁゃ》からの手紙を両腕で抱き締めたまま、慎悟が戻るのを待った。

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