第6話 お疲れモードの紅子ちゃん

「でも、なんか、不便だね」


 麻の長袖シャツの青年が言う。「何が?」と正面に座るワインレッドの髪の女性が問う。


「誰が誰か自己紹介する機会が来ないなぁ、って。一晩一緒にいるのに、名前を呼べない、っていうのは、なかなかキツいなぁ、と」


 Vネックのシャツの青年が声を上げて笑う。当然、楽しそうではない。


「俺がリセだったら、こんな状況でも呑気に自分がリセでーすなんて言えねェもんな」


 「リセでなくてもそうだ」と続ける。


「おい、みんな、思い出せよ。ニンファとリセはリア友だろ? んで、ケイトも何度かオフで会ったことがあるって感じだったよな。つまりこの二人はリセの顔を見たことがある」


 そして、全員に向かって問い掛ける。


「なあ、おい、ニンファ、ケイト。なんで何も言わねェんだ? お前らのどっちかが、こいつがリセです、っつって突き出してくれたら話は半分終わりじゃねェか」


 ショートヘアの女性が、「名乗り出たくないでしょうね」と溜息をついた。


「その二人のうちのどちらか、もしかしたら両方とも、共犯者かもしれないじゃないですか」


 「あるいは」と、ワインレッドの髪の女性が肩をすくめる。


「リセのご機嫌を損ねたら、そいつらも自分の身が危険に晒されるかもしれないネ。リセのいる前でリセが誰かチクる度胸はあるかな」


 関西弁の彼がさらに深くうなだれて「もう誰も信じられん」と呟いた。


「じゃあ、仮の名前でもつけておきますか」


 提案したのは眼鏡の青年だ。今度は彼に視線が集中した。


「本名ともハンネとも違う、偽名というか、仮名というか。今夜一晩有効の、適当な名前を名乗っておきましょう。とりあえず、呼び名があればいいんだから」


 美青年が「賛成」と言った。


「では、さっそく。僕は『オサム』にするよ、よろしく」


 美青年――オサムに続いて、麻の長袖シャツの青年が、息を吐きながら言った。


「じゃあ、僕は『コーヘイ』で。よろしくお願いしますね」


 麻の長袖シャツの青年――コーヘイの隣で、Vネックのシャツの青年も、「そうだなー」と一人腕組みをした。


「『カトー』にするかな。よろしく頼むわ」


 Vネックのシャツの青年――カトーの向かいで、ショートヘアの女性が頭を下げた。


「私は『サエ』で! サエと呼んでください、よろしくお願いしますっ!」


 ショートヘアの女性――サエの隣、ワインレッドの髪の女性が、自分の髪を指に巻きながら言う。


「私は『シズカ』かな。よろしくネ」


 ワインレッドの髪の女性――シズカが名乗り終えると、今度は関西弁の彼が頷いた。


「オレは『セント』でええわ。よろしくな」


 関西弁の彼――セントが、眼鏡の青年を振り向いた。


「それでは、僕は『ムツミ』です。よろしくお願いします」


 最後に、視線が紅子に集中した。

 紅子は慌てて口を開こうとした。

 カトーが「いや、紅ちゃんは名乗らなくていいんじゃね?」と差し止めた。


「だって、紅ちゃんはどう見ても紅ちゃんじゃん」


 他六人が、噴き出した。

 紅子は、逃げられない空気を感じて、肩を落としつつ頷いた。


「ベニです……。よろしく……お願い……します……」


 「大丈夫大丈夫」と、眼鏡の青年――ムツミが手を振る。


「紅ちゃんのことだけは誰も疑ってないと思うよ。紅ちゃんが紅ちゃんでいてくれると、みんなは紅ちゃんの前では安心できる」


 思わず「あたしがめっちゃ単純とか最年少でいじりやすいとかじゃなくて?」と訊ねてしまった。

 ムツミだけでなく他数名から「違うって」「そんなじゃないよ」「心配しなくていいですからね」と否定の言葉を貰うことができた。

 紅子は半目で息を吐いた。

 自分だけが他のメンバーに正体を知られているということではないのか。

 しかし沈黙する。これ以上この場で騒ぐのも疲れる。


 疲れた。

 紅子はもう、疲れてしまったのだ。


 インターホンが鳴った。

 慎悟が玄関に走っていったが、どうやら慎悟を待てなかったようだ。外から勝手に扉を開けられたらしい。「いやぁ、雨ひでェなこりゃあ」と言うしわがれた老人の声が聞こえてきた。

 慎悟が「すみませんこんな時に」と言うと、老人が「水村みずむらさんチの孫の頼みだっつうからよ、何とか持ってきたけどよ、こんなじゃ寿司が水浸しになっちまうんずって心配してよォ」と大声で続ける。

 しばらく老人と悪天候について問答をしてから、慎悟が大皿の出前寿司を持ってきた。

 間を置かずピザも届いた。二卓のテーブルが寄せられ、静かすぎるパーティが始まった。

 紅子はほとんど手をつけられなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る