第1話 さっそくバスを降りられないトラブルの紅子ちゃん
紅子がバスに乗れたのは、十七時三十分ちょうどのことだ。
駅で乗車したのは、紅子を含めて五人。
一人目は、大きなリュックサックを背負った十歳前後の少年。
二人目は、この辺りの地名が刺繍されているセーラー服の少女。
三人目は、紅子。
四人目は、背中の曲がった真っ白な髪の老女。
そして五人目、とても背の高い青年がボストンバッグを片手に歩み寄ってきた辺りで、バスがやって来た。
五人が順番に乗り込み、全員が距離を置いて座る。
最初の十五分ほどで、まず、一人目の少年がバスを降りていった。
バス停に穏やかな笑みを
少年が下りてから停留所を三つ進んだ辺りで、二人目の少女がバスを降りていった。
彼女は無言で定期券を提示した。
紅子は、バスがICカードに対応していないことに気づいて、慌てて自分の財布を見た。
さらに十分ほど経ったところで、四人目の老女がバスを降りていった。
ポケットからがま口の小銭入れを取り出し、硬貨を一枚ずつ数えてから、運賃ボックスに投下した。
運賃ボックスに赤い文字で『両替は停車中にお済ませください。二千円札・五千円札・一万円札には対応しておりません。』と書かれていた。
紅子が真っ青になって自分のバッグのポケットをまさぐっているうちに、四度目のブザー音が響いた。
五人目の青年が降車ボタンを押したのだ。
顔を上げた。
『次は 奥山川中』と表示されている。
危うく乗り過ごすところだった。
バスが停車した。
青年がバスの後方から長い足で大股に歩いてくる。
急いでバッグを抱えた。
青年の後ろを追い掛けるようにしてバスの前方に向かった。
運転手に、小銭は百円未満しかないこと、次は五千円札しか持っていないことを、釈明しなければならない。
こんなハプニングは人生で初めてだ。
舌が急に痺れたような気がする。
紅子が深呼吸をしているうちに、前の青年が運賃箱に千円札と小銭数枚を投下した。
「あ、二人分で」
運転手が身を乗り出してこちらを見てきた。
「彼女、お連れさん?」
青年は何のためらいもなく「はい」と答えた。
運転手は怪訝な顔をしていたが、そのうち、「ご利用ありがとうございました」と言って前を向き直った。
青年が振り向き、唖然としている紅子を見て、眼鏡越しに目を細めた。
優しそうにも見えたし、悪戯そうにも見えた。
「ほら、早くおいで」
「えっでも、あたし、運賃――」
「
紅子は頬が熱くなるのを感じた。
青年は自分が《紅》であることを知っている。
《P2》の誰かなのだ。
青年がバスを降りた。紅子は慌てて追い掛けた。
バスのドアが閉まる。
バスが走り出す。
バス停で二人になる。
「あっ、あっ、あの、ありがとうございましたっ! あとで精算――」
「これくらいいいよ。と言うか、」
青年が笑い出す。紅子は頬がさらに熱くなっていくのを感じる。
「バスの中で財布を広げたらダメだよ。僕の席からでも中身が丸見えだったよ、気をつけて。僕が悪い奴だったら、紅ちゃん、財布盗られちゃうよ」
「えぁっ!? やっべ、うっかり」
「お札見てパニクってる紅ちゃん、可愛かったな」
ボストンバッグを掲げるようにして腕を伸ばしつつ、青年が歩き始める。
彼の笑いがなかなか治まらない。
悔しいような、恥ずかしいような、それでも彼が助けてくれたから何事もなくバスを降りられたのだと思うと申し訳ないような――紅子の胸中は複雑だ。
青年の後を追い掛けつつ、周囲を見回す。
山の中だった。自分たちが立っている舗装された道路以外は前方も後方も左手も、すべて山林だった。
右手には、吊り橋がある。吊り橋の下には、川が流れている。停留所名そのままのロケーションだ。
吊り橋の向こうに建物が見えた。大きな家に見えた。緑の屋根に白壁の童話に登場してきそうな家である。《ぁゃ》の別荘だ。
やっとゴールが見えてきた。
青年は何のこともない足取りで吊り橋を渡り始めた。紅子も同様に何も考えず足を踏み出した。
途端吊り橋の揺れを感じた。
とっさに手を伸ばした。
足元が安定してから自分の手を見ると、青年のシャツの背中をつかんでいた。
「……怖い?」
振り返った青年がまたもや笑っていたので、紅子は慌てて手を離し、「違いますっ!」と主張するはめになった。
「ただちょっとっ、びっくりしただけでっ」
「手でもつなぐ?」
「バカにしてるんすか!?」
「冗談だよ。可愛いなって思って、つい」
「それを『バカにしてる』って言うんすよ!」
肩を怒らせつつ、大股で青年の横に移動した。吊り橋は幅広で二人が並んでも窮屈さはない。
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