第28話
「みんなの前では、俺はサリーだから。そのつもりでよろしく」
タイムマシンから降りると、純也はそう言った。そして次の瞬間、わたしはマンションの玄関にいた。
「ううう……」
わたしの涙はまだ止まらなかった。悲しくて悔しくて腹が立って、あの先生をぶっ飛ばして文句を言いたくてたまらなかった。
忘れたことはなかった。忘れられるわけもなかった。だけど、あまりにも酷い仕打ちに、わたしはあの出来事を、記憶の奥に追いやっていたような気もするのだ。だから、わたしは分裂した《ワカレタ》のだろうか。記憶を消し去ろうとしたからなのだろうか?
「おかえり優子さん。えっ?優子さん泣いてるの?どうしたの?病院で何か言われたの?」
トボトボと泣きながら歩いてリビングへ行くと、美佐子がいた。
「あ……なんでもないのよ……病気のことじゃないし……」
「そうなの?わたしたちってさ〜何歳になっても、なんだか嫌なことが多いわよね」
美佐子の言う通りだ。悔しいこと、悲しいことは、アリサの年の頃だけではなかった。美佐子は察しがいいので、根掘り葉掘り聞いてくることはない。美佐子はわたし自身なので、聞かれたくないことはわかっているのだ。
「わたしがここに戻ってきたら、誰もいないんだもの。サリーちゃんはいると思ったのに」
「俺ならいるぜ。アニキの部屋で漫画読んでたんだよ」
そう言いながら、サリーがリビングへ入ってきた。
「なんだいたの?たぶんそろそろ、子供たちも戻ってくるんじゃないかしら。優子さん、夕飯の材料ある?」
「あぁ、あるよ。さっき一度食材を買って戻ってきたから」
「あっ、そうなんだ。お疲れ様。今日のメニューなんにしようかな」
「ロールキャベツ風のスープにしようかな〜と思って、キャベツと豚ひき肉買ってきたんだけどね」
「あ〜ロールキャベツ美味しいもんね。子供たちも大好きよ。でも、7人分となると、下ごしらえが大変よね。早くやらなきゃ」
「大丈夫よ。巻かないロールキャベツだから」
「えっ?巻かないの?ロールキャベツなのに?」
美佐子はキョトンとした顔をした。
「うん。だから正確にはロールじゃないんだけど。キャベツとひき肉団子のスープ煮かな。味はロールキャベツだから、キャベツと団子を一緒に食べれば、同じことだもの」
「すご〜い。いいアイデアよね、それ。ほんとだわ、別に巻かなくてもいいんだもんね。食べちゃうんだし」
「わたしのアイデアじゃないのよ。テレビで誰かが作っているのを観てて、これならわたしにも作れるって思ったの。味付けはコンソメとケチャップがいいのよね?子供たちケチャップ味好きだから。わたしは最近ケチャップ入れないんだけど」
「そういうの手抜きって言うんだぜ。ロールキャベツは巻いてあるから美味いんだろ。子供たちの夢を壊すな」
純也、いやサリーがソファーに寝っ転がって、食べかけのポテトチップスを食べながら口を挟んだ。
あんたが一番子供なんじゃないの?
「サリーうるさい。ん〜じゃあサリーを含める子供たちの分はロールキャベツにしようか。後はスパサラダにしよう。シーチキン入れて」
これで栄養面はなんとかクリアできるだろう。詳しい人が見たら駄目だと言われるかもしれないが。家庭料理なんてどこもこんなものなのではないのだろうか。一応トマトやレタスも使うつもりだ。明日は和食にした方がいいのかもしれない。
美佐子とふたりで、夕飯の支度をしていると、次々に子供たちが、どこからともなく現れてきた。
アリサが現れたときに、わたしは咄嗟に目を閉じた。アリサがここに緘黙状態で現れてきているということは、すでに、あの忌々しい体験をした後だということなのだ。
痛々しくて、とてもアリサを注視できない。
「あっごめん。玉ねぎのみじん切りをしてるから、優子さんまで目に染みちゃった?」
「ううん、大丈夫よ」
ちっとも大丈夫じゃない。もう忘れていたつもりの記憶が、また蘇ったのだから。何故、純也はわざわざ記憶の奥に押し込めていたものを、わたしの目の前に見せつけたのだろうか。
忘れてしまった方がいいのだ。あんなことは。あのときからわたしは分裂した?つまり、別人格が出るようになった原因が、あの忌まわしい体験だと言いたいのだろう。
だとしても、わたしはちゃんとカウンセリングを受けているのだから、そんなことはカウンセラーの仕事ではないのか。カウンセラーは純也の存在も把握している上に、主人格だということもわかっている。緘黙のマイという人格が、たぶん保育園での、あの恐怖の体験の記憶を、ずっと引きずっている人格なのだろう。
あの恐怖の体験は、別人格だけではなく、基本人格である、わたしの性格をも変えてしまったくらい、影響のある出来事だったのだ……。
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