二〇二三年 三月某日

 季節は春、春と言えば衣替え。そして……。


「シャーッ! フーッ!」


 毎年恒例の『コタツ及びホットカーペット撤去』の時期である。ペットを飼っていない我が家でコタツにこもって目を吊り上げて威嚇している大きな猫は、齢三十を超える妖艶な猫又。


 ……いや、リツコさんだ。


「リツコさん、もう春やで?」

「いやっ!」


 猫の居るご家庭では毎年春にコタツを片付けるたびに寂しそうにする愛猫の姿に心痛むと聞いた。少し大型でも猫ならヒョイと除けてしまえば良いが、悲しいかな眼の前に居るのは猫っぽい人間(♀)だ。


「とと、ママはネコちゃん?」

「猫かもしれんなぁ」


 リツコさんが猫だとすると、リツコさんから生まれたレイも猫になる。幸いなことにレイはリツコさんほどコタツに執着することなく三歳の誕生日を迎えた。喜ばしいことである。


「レイちゃんもネコちゃん?」

「レイはネコちゃんと違うで」


 レイは徐々に自我が出てきたのか、見た目はともかく行動にリツコさんとの違いが出てきた。特に寝起きの良さはリツコさんと大違いで、起こさなくても毎朝同じ時間に目を覚ます。目覚めた直後はボーっとしているリツコさんと対照的に、目覚めと共に途端に元気一杯スロットル全開だ。


「ママはネ~コちゃんっ♪」

「やってさ、リツコさん」


 娘に猫扱いされたのが堪えたのか、リツコさんは「猫じゃないもん」とぶつくさ言いながらコタツから這い出した。今年はエサでなく自分から這い出した点だけは褒めてあげようと思う。


◆        ◆        ◆


 キャブレターの選択は用途によって変わる。サーキット走行をするなら高回転域重視で口径がやや大きなものを、街乗り重視ならやや小さめ。少し前(と言ってもリツコさんに言わせれば結構昔らしいが)なら同系列の排気量の大きなモデルから流用したのだが、最近は中古で良品が見つからなくなったこともあり新品のスポーツキャブをお客さんに勧めている。


「コタツですか? 私の部屋には有りませんね」


 ウチのニャンコリツコさんが言うには「女性の体は温めておかなければいけない」らしい。だからと思って早めにコタツを出していたのだが、ただ単にリツコさんはコタツが好きなだけだったようだ。


「天美さんは冷え性とかは無い?」

「ないですね、そもそも冬も普通にオートバイに乗るくらいですから」


 月刊ホニャララを組み立てるの如く毎月部品をコツコツと購入しては組み立てる。小さなオートバイを一から組み立てる『実寸大ミニバイクを作ろう』の最終号はキャブレター。パワーフィルターとセットのキャブレターは国内メーカーの海外委託生産品。


「海外生産なんですね、品質は?」

「問題無い、毎回チェックしてるけど大丈夫」


 最近はベアリングも海外生産で検品のみ日本国内でするメーカーもあると聞く。品質を落とさず価格を上げない苦肉の策だと思うが、日本の物づくりの未来が少し心配になる。


「耐久性は?」

「高嶋高校まで毎日通学してる子でも問題は無い」


 とある偉人はサーキットは実験室だと言っていたそうだ。サーキットに限らず実際に使って初めて出てくる不具合や不便は多い。作った側が良かれと思ったものが使う側からすれば不満だったり不要だったり。正しいか否かはわからないが実走に勝るテストは無いと思う。


「高校生の無茶な使い方でも耐えて多少セッティングが外れても走ってしまう、シンプルやからその気になればプライベーターでも触れる名キャブレターやね」


 サーキット走行専門なら気温や湿度、気圧などでセッティングをピンポイントに詰めるのがベストだろう。しかし天美さんはこのモンキーを通勤やお出かけに使うそうだ。カリカリのセッティングより状況の変化に対応できるベターなセッティングが扱いやすいと思う。


「さて、火入れやけんど」


 完全分解したエンジンを初めて始動する、これを『火入れ』と呼ぶ。何回エンジンを組み立てても心ときめく一時だ。


「せっかくや、オーナー自ら火入れしてみるか?」

「いいんですか?」


 新品キャブレターはある程度の調整がされて出荷されている。多少の調整はしなければいけないが、エンジン始動くらいなら普通に出来るはずだ。燃料コックをONにしてキーはOFFのまま、何回かキックスターターペダルを踏みこんでエンジンを空回ししてキャブレターのフロート室へ燃料を送る。


「キックで(エンジンを)始動は久しぶり……かな?」

「今の時期やとチョークを引いて(エンジンを)かけよか」


 キーを回してONにしてチョークレバーを引く。近頃のインジェクションエンジンでは始動時はコンピューターが行う燃料増量、キャブレター車では乗り手の耳や鼻がセンサーとなり吸入空気を絞ることによる疑似的に行う。


「キックのやり方を教えるなんて、『釈迦に説法』かな?」

「いえいえ、キャブ車なんて久しぶりですから」


 キックスターターペダルを軽く踏んで圧縮上死点を探り、圧縮上死点を少し超えたあたりでスコンと踏み下ろす。ガシガシと蹴るのではなくて踏み下ろす。やはり天美さんはオートバイのプロだ。数回のキックの後にエンジンは無事始動した。


「ふふっ……やっぱり可愛いですね」

「じゃあ調整やな」


 アイドルスクリューを回してアイドル回転を安定させ、エアスクリューを回して回転が最も上がったところで再びアイドルスクリューを調整して回転が不安定になる直前まで回転数を落とす。それを何回か繰り返せば『キャブレターの調整』は完了する。本当ならCO・HCメーターで一酸化炭素や未燃焼ガスの濃度を調べながら調整するのだが、ウチみたいな小さい店ではプラグや排気ガスの色を見て、排気ガスの匂いを感じての調整だ。


 もうすぐ四月、新年度と共に天海さんのモンキー通勤が始まるだろう。



 

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