さよなら美紀様

 男装の麗人として舞台で活躍するだけでなく、女優として「私、成功しかしないので」の決め台詞でお馴染みの凄腕外科医を演じたり、少女だけでなく母親まで巻き込んで虜にするアニメ『美少年戦士・ブレザースター』の声優を務めたり。売れに売れている葛城美紀が休業宣言をして関西の田舎町である新高嶋市を訪れたのはいくつかの理由がある。


「これで手続きは終了です。土地の代金は指定された口座へ振り込まれます。家屋の解体および処分費用を差し引いた金額はこちらです」

「うん、ありがと」


 今都市から市営歌劇団への出演要請を受けた葛城美紀は「同郷だから出演料は無料で? いや、私は『新高嶋市』の出身だから」と断った。


「これで今都市からの嫌がらせから解放されるね」

「そうですね」


 今都市歌劇団から『ノーギャラでの出演命令』を受けた美紀の所属事務所は当然だがこれを断った。しかも依頼と言う名の命令を受けたのは公演予定日の数週間前。当時は半年どころか数年先まで予定がビッシリだった美紀にとって数週間後に出演など出来るはずがない。


「故郷を捨てるのは寂しいけれど、こればっかりは仕方がないよね」

「仕方がないと思います。でもいつでも遊びに来てくださいね。母も喜びます」


 出演を断って以降、今都市による実家への嫌がらせが続き、両親と両親に預けていた息子の身の安全を守るために美紀は決断した。両親を活動拠点に近い施設へ入所させる。そして、離れ離れになっていた息子と新しい暮らしを始める。そして、実家や農地はこれを機会に処分すると。


「次に滋賀……いや、新高嶋市を訪れる時はいつになる事やら」

「本田のおっちゃんが『カブが出来たで』って呼びますよ」


 幸いな事に実家が建っていた土地は区画整理のために新高嶋市が買い取り、放置状態だった田畑も若く意欲がある農家に売れた。そして、億田不動産で最後の手続きが完了したのが今日である。


「ふふっ、そうね。カブは『地獄の底からでも蘇るオートバイ』だもんね」

「そうですよ、父もそう言ってました『カブのように生きてゆけ』って」


 両親はすでに施設で、息子は美紀のマネージャーと共に美紀のマンションで新しい生活を始めている。もう高嶋市に留まる理由は無い。


「私もね、旦那……いや、籍を入れる前だったから彼氏か。あいつが亡くなった時は地獄の底へ突き落された気分だったわ……」


 美紀は身ごもった時点で芸能界を引退しようと思っていた。ところが事務所の看板女優である美紀が引退するとあってはファンもスポンサーも株主も納得しない。当時の事務所は必死になって美紀を説得した。実質引退ではあるが事務所に留まる事になり、表向きには『自分探しの為に無期限の休業』と発表された。男装の麗人として人気のある『葛城美紀』が妊娠したとあっては芸能活動に影響があると判断したからだ。


「表舞台から離れて子育てに専念しようと思ってたのに戻ってきちゃった」


 婚約者を失った美紀は生活の為に幼子を両親に預けて芸能界へ復帰した。個人事務所を設けたのは税金対策と少しでも息子と会う時間を作るため。元の事務所と提携を結んで仕事を続けて今日に至る。


「引退するはずが現役復帰、何だか私とカブは一緒ね」


 美紀の愛車であるスーパーカブカスタム七〇は祖父母が乗っていた車体だった。祖母が亡くなって以降、物置内に放置されていた。轟家では誰も自動二輪免許を持っていなかったからだ。そんな誰も乗らないスーパーカブを教習料で金欠になった美紀が物置から引っ張りだして大島サイクルへ修理を頼み、通学の足として乗り出して十数年の年月が経った。


「男はあの子の父親だけ、バイクもプライベートはカブだけ。意外でしょ?」


 レイが「はい」と答えると美紀はニコリとほほ笑んだ。


「ま、男もバイクも初めての相手を忘れられないってね。どちらもナンバーワンじゃなくてオンリーワンってね」

「美紀様、旦那さんの事は聞いてもいいですか?」


 美紀は首を縦に振らなかった。レイも深くは追及せず書類をまとめて封筒へ入れ、美紀に渡した。


「さて、これで私が新高嶋市に留まる理由は無くなったわけだ。本田君たちに預けたカブが出来るまでは来る理由も無いから、当分は仕事漬けだね」

「今後もご活躍を」


 美紀は「カブのレストア代も稼がなきゃ」と立ち上がり、首をコキコキと鳴らした。


「レイちゃん、お母さんのことを大切にね」

「最善を尽くします」


 肩の荷が下りたのか、今都市の嫌がらせから解放されたからか。居合わせた億田不動産の従業員は後に「大スターらしい清々しい去り際だった」と語るのだった。


◆        ◆        ◆

 

「さてと、大島のおじさんに挨拶もしたし、帰ろうかなっと」


 ここは関西の片田舎、琵琶湖の西側にある滋賀県新高嶋市。


「美紀ちゃん、いつでも遊びに来てね。泊まる部屋なら用意するからね」


 小さなオートバイが人の繋がりを生む街・新高嶋市。


「じゃあ、今度は息子と来ようかな?」


 かつてこの街には小さなオートバイに命を吹き込むと言われた男が居た。


「その頃には私はお祖母ちゃんかもね」

「リツコ先生もレイちゃんの変化に気が付きましたか」


 その男は亡くなったが、男が魂を込めた小さなバイク達は今も走り続ける。


「美紀ちゃん、私は『保健室の女神』と呼ばれのよ? 『釈迦に説法』じゃない?」

「ありゃ、私、失敗しちゃった」


 今はその男の遺志を受け継いだ夫婦が店を引き継いで小さなオートバイを蘇らせ、命を吹き込み続けている。


「じゃ、リツコ先生。しばしのお別れ」

「美紀ちゃん、またね」


 次に高嶋市を訪れるのはいつになるだろう。だが、自身の根っこはこの街に在る。そう思う美紀は決して『さようなら』とは言わない。少し長い旅に出るだけだ。


「いってきます」

「いってらっしゃい」


 『いってきます』は再び新高嶋市へ戻るためのおまじない。轟美紀は愛車のトヨタ・クイックデリバリー改に乗り込みキーを捻った。


「やっぱり一番頼りになるのは昔ながらのガソリンエンジンよね」


 東京へ戻れば自分は『女優・葛城美紀』に戻る。それまでの道中、せめて車内だけでも演ずることのない『轟美紀』であろうと思う美紀だった。

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