第446話 大島家の長い一日・時刻は24時

 絶対に負けられない戦いが始まった。麻酔された後に会陰切開。お股が切られるのは少し心配だったけど事前に『きちんと縫い合わせますからね、何だったら真っ新に縫いますよ』と言われて安心した。


「出るっ! 出ちゃう!」

「大島さん、私たち医療従事者には守秘義務があります」


 陣痛の痛みと猛烈な便意が私を襲う。赤ちゃんが下りて来るに従って便意も増して行く。何とか赤ちゃんだけ産みたいと思っていた私だけど余裕が無い。


「ここで何があったとしても絶対に他言しません」

「ふぎゃぁ~! 痛い! 痛い! 中さん! お母さ~ん!」


 聞こえているけど返事が出来ない。こんな事なら中さんに立ち会ってもらえば良かった。


「一週間や二週間くらい溜まったモノなんて十月十日とつきとおかと比べれば何て事無いですよ。思いっ切り全部出しましょうっ! さぁいきんでっ!」


 一・二・三で思い切りいきむ。


「ウァァァァァァ! ハァ……ハァ……」

「もう一丁!」


 今度は何か大きなものが私の身体から出てきた気がする。


「頭が見えて来ました、もう少し! もう一丁! 一・二の!」

「三! ダーッ!」


 だけどそこからが上手くいかない。出て来るのはウ〇コばかりだ多分。


「大島さん、頭が見えていますっ!」


 頭が見えているけど出てこないなんて何が有ったの? 心配していると医師がスタッフに指示を出した。


「吸引します。同時に圧出の併用」


 医師の冷静さが逆に怖い。あと疲れた。頭がボ~っとする。お腹が空いた。完璧にエネルギー切れ。活動限界まであと五分足らずといったところか。


「大島さん、乗りますっ!」

「圧出って何っ!」 


 何かと思った瞬間にスタッフが馬乗りになった。


「大島さん、目を閉じないで! いきますよっ!」


 眼前にはスタッフさんのお尻。ナース服がスカートタイプなもんだからパンツが丸見えだ。


「パンツしか見えないぃぃぃぃ!」

「出産に集中する! 一・二・三・ハイッ!」


 吸引の器具がセットされ、スタッフがお腹を押した瞬間にものすごい勢いで私の中から色々と飛び出した。そりゃあもう、我が子だけじゃないモノも出たと思う。感触が有ったもん。こんな感想は叱られるかもしれないけどスッキリした。


(泣かない! どうしてっ!)


 ズズッ ズッ……ズッ……


 普通は生まれた瞬間にオギャーって産声が聞こえるんじゃないの?! どうして! 先生が何か吸い取ってる。もしかして私たちの赤ちゃんは……最悪の事態を覚悟した瞬間。


「ふやぁぁぁぁあっ! ふにゃぁぁぁあっ!」

「ひゃあ! 元気な女の子ですよっ!」

「こりゃあ御転婆さんになるぞっ!」


 私たちの赤ちゃんは医師やスタッフが驚くほど大きな産声を上げた。


◆        ◆        ◆

 

 産声が聞こえたのに全然呼ばれない。もしかして何かが有ったのかと不安になったその時、分娩室の扉が開いた。リツコさんの言った通り生まれた後で赤ん坊の体を洗ったり胎盤の処理をしたり色々とあったらしい。


「おお、これが我が子か、そうか、我が子か」

「元気な女の子ですよ、こんな元気な赤ちゃんは久しぶり」


 もう何と言えば良いのやら。


「よい吸いっぷり。すごく元気ですよ」

「そうか、元気ですか」


 リツコさんのオッパイを吸う我が子の姿が涙で良く見えない。


「母乳から免疫をもらうんですよ、オッパイをあげる事で母親の―――」

「吸い始めたら出て来る様になっちゃった。不思議ねぇ」


 たしか出産直後の母乳は『初乳』といって、赤ちゃんが産まれるのに大切な成分が含まれていると何かの本に書いてあった気がする。


「吸引をしたから今は頭がポコポコしていますけど、二~三日で―――」


 スタッフが他の何か説明してくれたけど全然頭に入らない。


「本当に(お腹の中に)居たんだ、小さいけど耳も爪もある……」

「真っ赤やな」


 そう、リツコさんが言う通り小さくて掌に乗りそうだけど人として全部揃っている。つまり、小さいけどバイクとして成り立っているホンダモンキーと同じだ……我が子をバイクに例えるなんて、俺は何を考えてるんや。


「泣かなくて焦っちゃった」

「あら? そんな事ないですよ? すぐに元気な産声をあげましたよ」


「そう?」


 人間は極限状態に陥ると周囲がスローモーションに見えると聞いた事がある。スタッフさんが言う通りならリツコさんは極限状態だったのだろう。


「出産は命がけなんやなぁ」


 親父とお袋が事故で亡くなった時は大変だった。でも今回の出産も大変だった。出生届けも出さにゃならんし、いろいろ手続きが必要だ。人の生き死にって大事やなぁ、本当にそう思う。


「へへっ……ねぇ中さん」

「はい」


 リツコさんの照れ笑い。これはアレを求めているのだろう。


「私、頑張ったよね? 褒めて。ギュッとして褒めて」


 赤ん坊の反対側に回りリツコさんの頭をギュッとした。


「痛みに耐えてよく頑張った。感動した」

「それ、チョッチ違う」


 間違えた。


「お疲れ様、よしよし」

「にゃう~痛かったよう」


 肝心な所で締まらないのが俺らしい。


◆        ◆        ◆


 リツコさんは無事に出産を終えた。面会時間もとっくに過ぎている。そこで一旦家の戻ろうと思って表に出た俺は途方に暮れていた。時計の針は頂上を過ぎて、産院前には人っ子一人いない。


「さてどうしたものか……」


 よく考えれば帰りの足が無い。産院へは金一郎に送ってもらった。バスと電車の最終便はとっくに終わっている。タクシーは新年会の送迎で出払っているとかで来ない。


「金一郎に頼むか、先に電話しとけばよかったなぁ」


 携帯を鳴らすと金一郎はコール一回で出た。俺からの連絡を待っていたらしい。すぐに行くと返事した金一郎に「今度は先導無しやからな」と言って通話を切った。


「俺が人の親か、不思議なもんやな」


 金一郎の到着を待つ間、俺は空を眺めていた。月が綺麗な夜だった。

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