第421話 再びジャイロX

 夫の機嫌が悪い。バイクを弄る時は仕事とはいえご機嫌な夫が不機嫌だ。それどころかキレかけているように見える。


「中さん、キレてるの?」

「ん~キレてるかって? キレてへんで、俺をキレさせたら大したもんや」


 何処かで聞いたようなやり取り。その原因は在庫していた三輪バイク、ホンダジャイロXだ。我が家で主に私がお買い物に使っているジャイロちゃんは比較的初期のモデルだ。排気ガス規制の無い時代のモデルで構造が簡単なニストロークエンジン。デファレンシャルギヤの代わりにデフクラッチって奴で左右輪の回転差を吸収しているモデルなんだってさ。


「とは言え、排気ガス規制絡みかなぁ、何や色々付いてて整備しにくいわ~」


 我が家のジャイロちゃんは生産終了や供給終了の部品が多くて中さんを弱らせたけど、今回のジャイロXは色々な物が付いていて整備が面倒みたい。


「何だかゴチャゴチャしてるわね」

「そうなんや、排気管の周りが……触媒やら二次空気なんチャラ装置が……」


 初期型のジャイロちゃんに比べるとエンジン周りが賑やかだ。特に排気管の周辺がゴチャついて見える。普段はスーパーカブを始めとする横型エンジンを整備する彼にとって触り慣れないだけじゃなくって元々整備が面倒みたい。気のせいか車体も長くて幅が広いようにも見える。


「ウチのジャイロちゃんより長くない? 幅も広いでしょ?」

「そうやな、幅と長さが五~六センチ大きいんかなぁ?」


 年々厳しくなった排気ガス規制は小型軽量な二ストロークエンジンを苦しめ続け、徐々にクリーンな四ストロークエンジンに変わっていった。それでも重い車体だからと理論上倍の出力になる二ストエンジンにこだわったジャイロシリーズ。排気ガス規制をクリヤーした代わりに車両価格と整備性に皺寄せが来ちゃった。程度の良い中古車は稀、特に個人で所有する人は珍しい。中古車市場で人気なニストロークエンジン搭載のジャイロ。中古車として売り出そうとしている中さんを困らせている訳だ。ちょっとジェラシーだ。わがままを言って中さんを困らせるのは私だけで良い。


「まぁボチボチやるわ、結構高値で売れるみたいやしな」

「とか言って安くで売っちゃうんでしょ?」


 ジャイロシリーズは一定の需要がある割に使い倒されちゃうから中古車が無いんだって。おかげでピザ屋さんとか乳酸菌飲料販売とかで使い倒された車体でも結構なお値段で取引されている。幸いなことにこの車体は一般ユーザーが乗ってた車体みたい。


「キャブの整備で息を吹き返した。素性は悪うないで」

「よく見ると進化してるよね?」


 その気になったら大儲けできそうだけど、この人の事だから『条件を聞こう……』とか言って事と次第によっては安くで売っちゃうんだと思う。


「パンチがある二ストエンジンでコーナリングがスムーズなデフギヤ付き、今回はちょっとだけ稼がんとなぁ。出産費用におむつ代、ミルク代にその他諸々……背負う物がある代わりに頑張れるってな」


 あまり笑わない夫が見せた悪戯小僧っぽい笑顔。少しだけキュンとした。


◆        ◆        ◆


 十月も半ばを過ぎてグッと気温が下がった。こんな日は何か暖かな汁ものを食べたい。汁だけでは物足りないので具だくさんのシチューを作ってみた。リツコさんが大好きなお肉ゴロゴロのシチューだ。


「今夜はシチューにしてみた。バゲットも買うてあるで」

「ん~? シチューは良いんだけどさ、ちょっと違うと思うんだけどなぁ……」


 リツコさんが異議を申し立てた。具材は圧力鍋で煮込んでスプーンで崩せるほど柔らかく、特にお肉はコラーゲンたっぷりな筋部分をゼリーの如く柔らかに煮込んである。ニンジンやジャガイモだって柔らかだ。玉ネギは透明になって崩れそうなほどだ。実際に少し溶け込んでいると思う。ジャイロの整備以上に力を入れたのに何故だ。


「シチューは好きなんだけどさ、美味しいけど今日はバゲットじゃないのよねぇ……」

「その割には良い食べっぷりやけど……これ、お肉ばっかりよそわない」


 文句を言う割にはパクパクと良い食べっぷりな気がする。気合を入れて作ったに文句を言われた俺は腑に落ちない。ただ思い当たる節は在る。


「リツコさん、冷蔵庫に凍らせたご飯と冷凍うどんがあるで」

「ソフト麺がいい~」


 予感が的中した。リツコさんはカレーシチューに『ソフト麺』を入れたい人なのだ。最近の若者には解らないかもしれないので説明しよう。ソフト麺とは昔懐かしの給食に出てきた全く腰の無い茹で麺だ。


「じゃあうどんやな、ご家庭で再現する場合は細めの茹で麺を少し長めに湯掻くのが良いでしょう。近頃はソフト麺を製造している製麺所が少なくて入手が困難です」

「誰に説明しているの?」


 少し長めに茹でるのがポイントだ。ソフト麺に腰が在ってはいけないのだ。ソフト麺は名前の通りにソフトで、しかも表面がツルリとしていてはならない。少しざらついているくらいで良いのだ。


「すこし冷まして伸ばすとソフト麺っぽくなる」

「そうそう、こんな感じだ。同級生のお家で造ってたんだよね、懐かしいなぁ」


 リツコさんは小学生の頃、実家の近所に有った製麺所でソフト麺を分けてもらっていたそうだ。


「リツコさんの頃はまだソフト麺が出てた時代?」

「うん、給食に出てたし直接同級生のお家に買いに行ったりもしたよ」


 今やソフト麺は絶滅危惧種。製造している所が少ないだけでなく、最近の給食は豪華になっていて出る事が無いのだと噂で聞いた。


「そのお家のお父さんが亡くなって、製麺所も廃業しちゃったんだよね」

「ふぅん、でも俺はシチューでもご飯派やなぁ」


 結局シチューに飯を放りこんでしまう俺にはカレーライスもカレーシチューライスも有ったもんではないが、まぁ気にしない気にしない。今夜は俺がバゲットでリツコさんがソフト麺風に茹でたうどん。ニャフニャフと喜んでカレーソフト麺みたいなカレーシチューを食べる妻を眺めながら時間が過ぎて行くのだった。


 出産予定日まで二カ月を切った。とにかく無事で生まれて欲しい。その為なら多少の我儘なら何でも聞いてあげようと思う。

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