第374話 リツコ・晶にゼファーを任せる。

 妊娠して以来、バイクに乗る事を中からだけでなく医師からも止められているリツコ。車検を通したばかりなのに放置状態な愛車ゼファーが気になって仕方がない。天気が良いから少しだけ乗ってみようかとしたのだが……。


「にゃうぅ~、せっかくオーバーホールしてリフレッシュしたのに~」

「アカンって、今日は午後から雨が降るから! おやつにパンを入れたから我慢して!」


「我慢する……」


 駄々をこねるリツコとそれをなだめてクルマに乗せる中のやり取りは藤樹商店街の名物になっていた。そんないつものやり取りがあった日の午後三時。リツコは十年来の愛車の事を気にしつつ、弁当袋をガサゴソと漁っていた。


(まぁ仕方がないか、中さんには辛い過去があるものねぇ……)


 せっかくオーバーホールしたのに慣らし運転も終わらない間に妊娠が判明。それ以来バイクに乗っていない。リトルカブなら夫に動かして貰えば良いが、大型自動二輪免許を持っていない夫はゼファーに乗って公道を走る事は出来ない。


(乗って乗れない事は無いけど止めておこうっと)


 お腹は大きくなっていないので乗って乗れない事は無いのだが、夫は過去に婚約者と胎児を同時に失った悲しい過去がある。しかも『琵琶湖に浮かんだ笹船を上空から見つけるようなもの』と言われていたのに奇跡の自然妊娠。万が一転んでお腹の赤ん坊に何かが在れば立ち直れないだろう。愛車のゼファーの調子は崩したくないが夫は乗る事が出来ず、自分も乗れないとなれば誰かに乗ってもらうほかはない。かと言って売るのだけは絶対ダメだ。一目惚れをして夫より長い年月を共に走っているのだ。


(大型自動二輪免許……安井のおじ様……は足が届かないかも)


 はてさてどうしたものか、悩んだリツコの脳裏に一人のライダーの姿が浮かんだ。


「そうだ、晶ちゃんに乗ってもらおう」


 友人の葛城晶はプロのライダー。よりによってバイク乗りから嫌われる白バイの乗り手でもある。バイク乗りからは嫌われているがバイクと女性の扱いは上手い。それに普段乗っているスーパーカブは高速道路を走る事が出来ず、デートに行ける範囲が限られるとぼやいていた。


「タンデムで乗ると彼女の胸の感触を背中で楽しめるよね♪」


 リツコはゼファー一一〇〇を豪快に操る葛城晶とタンデムシートにちょこんと座る可愛らしい浅井薫の姿を思い浮かべた。


 ちなみに葛城晶は女性で恋人の浅井薫は男性である。そして、葛城晶は超絶イケメン女子で浅井薫は可憐美少女系彼氏だったりする。オッパイが在るのは晶で、男の薫には無い。


「おっと、今日のおやつのパンは……む?……パン・ゴールで買って来たな?」


 リツコはサラダパン(炒めた玉ネギとマヨネーズを乗せて焼き上げたパン)を弁当袋から取り出して頬張った。


(本当はオーブンで軽く炙って食べると美味しいんだよね~)


 玉ネギの甘味とマヨネーズの風味が混然一体となってリツコの口の中に広がった。ちなみにこのサラダパンは案外カロリーが高い。にも拘らずリツコは中から「竹原君にも分けてあげなさい」と言われた分も食べてしまった。完全なカロリーオーバーである。


◆        ◆        ◆


「リツコちゃん、今度の週末にゼファーを貸してくれない?」


 晩御飯を食べに大島宅へ寄った晶からの思いがけない申し出。


「前に『ゼファーたんに乗ってあげて』ってメールくれたよね? 彼氏お兄ちゃんとタンデムで遠出したいの。バッテリーの充電にも良いと思うんだけどどうかな?」


 遠出をするなら願ったり叶ったり。長距離を走る方が街中をチョコ乗りするより調子が出る。ある程度回転数を上げて走れば調子も良くなるだろう。


「いいよ、何だったら週末と言わず当分乗っててくれてもいいけど」

「車庫が無いから週末だけでお願い。レンタル代はお土産で」


 いくら警察署に乗って行くとは言え今都で目立つバイクに乗るのは怖い。通勤で当たり屋と事故なんか起こしてしまえば困る。遠出と言っても京都や福井あたりまでの比較的近距離のツーリングに使いたいと言う晶に愛車を貸す事をリツコは承諾した。


 その後、晶と薫は滋賀県近辺にツーリングに出かけてリツコにお土産を買い、お土産を食べたリツコの体重が増えて、何故か中が医師にこっ酷く叱られたりするのだが、それはもう少し先のお話。

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