第359話 幕間・少し未来のお話(後)

 父の遺した日記を読み始めた母、その眼から滴が落ちた。すっかり振り切れたと思っていたのに泣くなんて、いったい何が書いてあるのだろう。


「お母さん、どうしたん?」


 母は何も言わず日記を私に見せた。日付けは元号が令和に変わった数日後。


「なになに……令和元年五月十一日? お父さんの誕生日だっけ?」

「そうよ……遅くまで起きてたと思ったら……」


 日記には母の妊娠がわかった時、父がどれほど喜んだかが記されていた。母は深酒をして酔っぱらうたびにその日の父は『診察結果を聞いても「おお、そうか」と言ったくらいで喜んでくれなかった。喜んでくれても良かったのにっ!』とか、『普通な様子で車を運転して途中で寿司屋に寄ってから家に帰った』と言っていた。


「お寿司を買って帰ったんだっけ?」

「妙に静かにしているから変だなぁって思ってたんだけどね……」


 日記には父が母に見せなかった本当の気持ちが昭和生まれの男らしい不器用な表現で遺されていた。


『令和元年、四十五歳の誕生日にとんでもないサプライズプレゼントだ。奇跡が起きた。リツコさんのお腹に新しい命が宿ったのだ。少しでも気を緩めると地球を持ち上げたりしそうになるので気を引き締めた。いや、これから親になると思うと身も心も引き締まる。だが、やはり気持ちは抑えきれなかったのだろう。えらく豪勢なお寿司セットを買ってしまったし、妊娠中は貧血になりやすいってのが頭にあったからか鉄火巻きを追加で買ってしまった。冷静に考えると鉄火巻きは鉄分補給には関係が無いと思う』


「お父さんでも浮かれたり燥いだりする事があったんや」

「そうよ。あなたが生まれる前はまだ元気だったんだから」


「浮かれて『地球を持ち上げる』ってどんなのよ?」


 私の記憶の中に居る父は優しくて厳しくて料理上手で静かなイメージだった。私が物心ついた時にはすっかり歳を取って落ち着いていたが、母と出会った頃の父はまだまだ若さが残っていたのだろう。新婚当初の日記なんて読むのがはばかられる(もうちょっと前の日記には母と初めて結ばれた時の事まで書いてあって驚いた)ほど母と仲良ししていた。


『ああ、名前はどうしよう、そうだ、元号が変わったことだし新しい元号にちなんで『令』とか『レイ』を入れよう。男の子だろうか、女の子だろうか、そんな事はどうでも良い。腕白でもお転婆でも良い。逞しく育ってほしい。ハンバーグ!』


「お母さん、この『ハンバーグ!』って何?」

「お父さんの小さな頃に流れてたテレビCMと日記を書いた頃に居た芸人さんよ」


 あとからネットで調べたらどちらも動画が出て来た。ハンバーグは何十年も作られ続けているロングセラー。芸人さんの方は微妙だった。その頃若手なら今は大ベテランになっているサンド〇ィッチマン師匠やナ〇ツ師匠の方が面白いと思った。


 ナ〇ツ師匠が若い頃からベテラン風なのが笑える。


『キン〇マが壊滅的状況の中、最後の一弾(?)が目標に命中! 俺はこの喜びを何と表現すれば良いのだろう。この感動を何と表現すれば良いのだろう。嬉しくて嬉しくて言葉に出来ない。バイクで通勤は危ないからこれからは毎日仕事場まで送り迎えをしよう。車もバン以外に乗用車も買った方が良いだろうか? 赤ちゃんが生まれたらベビーシートも買わんとアカンな。男だろうか、女だろうか? ああ、気になって仕方がない。どちらでもいいがリツコさんに似て欲しい。女の子が生まれて俺に似たらどうしよう』


 ちなみに私は母に似た。お酒の強さも母譲り。おかげで『うわばみ』とか『酒豪』『アルコール燃料者』なんて呼ばれている。私を落とそうと飲みに誘った男の八割は酔いつぶれ、二割は急性アルコール中毒で病院へ運ばれている。「フフッ、酔っちゃった♡」って周りを見渡すと全員潰れている。現在呑み勝負は勝率十割。ただし、試合に勝って勝負に負けている気がしないでもない。


「女の子はお父さんに似るって言うけど、私はお母さん似やなぁ」

「顔とスタイルは私、お料理の腕はお父さんね」


 幸いな事にお料理の腕前は父に似たのか、それとも指導が良かったのか上手な方だと思う。少なくともカレーばかり作ってしまう母よりレパートリーは豊富だ。


「バイクに乗る姿がお母さんとソックリやて浅井のおばちゃんに言われた」

「お父さんは乗るより弄る方だったのよ」


 バイクに乗る方は母譲り。残念ながら父からバイク修理の才能は遺伝しなかった。だから父は私にバイク店を継がせず売ったのだと思う。


「お父さん、私が出来たってわかってめっちゃ浮かれてるやん」

「浮かれてたのねぇ……喜んでくれてたのねぇ……言ってくれなきゃわからないじゃないの……堪えなくていいのに……中さんのバカ……」


 このまま日記を読んでいては休暇の間に物置が片付かない。涙と鼻水でジュルジュルになった母を促して作業を続ける。


「お母さん、取りあえず部屋に運んで後で読もっ、ね?」

「うん……グスッ……うん……」


 日記を母の部屋に運んだあとは再び物置の片付けを続ける。物置から母が乗っているバイクの予備部品や父が使っていた工具が出て来るたびに母が父との思い出を話す。おかげで作業がなかなか進まない。


「お父さんがね、『子供が乗るバイクを作るんや~!』ってね……」


 母の妊娠を知って喜ぶ父を思い浮かべながら、私は物置のホコリと蜘蛛の巣をひたすら掃除し続けるのだった。

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