第220話 大島リツコ・70歳

 大島リツコ、とうとう七〇歳になりました。でも見た目は五〇代に見えるんだって。若く見えるでしょ♪ 『見える』って言わないとオコだぞっ。


 まぁそれはどうでも良いとして、私が中さんに初めて抱かれてから四〇年が経ちました。


 初体験の痛みやらいろいろな感情で泣いてしまった私に『もう泣かせる事なんかしない』と約束した彼だったけど、その後もいろいろと私は泣かされました。プロポーズの時、結婚式の時、中さんが勝手に動かした箪笥の角に小指をぶつけたりした時、出ていた鼻毛を抜かれて泣いた事も有るし、中さんがうっかり唐辛子を入れ過ぎたキムチ鍋で泣いた事も有りました。何だか楽しい思い出ばっかりだね。


 そして、彼が病で余命いくばくもないと宣告された時も泣いたし、彼が亡くなって、お葬式の後に遺影を見て泣いた事も有りました。最後の最後で思いっきり悲しませて泣かせて……中さんの嘘つき。


 亡くなった時、私は精一杯の笑顔で見送りました……涙は出たけど彼の願いだったから精一杯の笑顔で見送りました。


 最期の時、寝てばかりだった中さんは私を呼んで抱きしめました。


「リツコさん……おいで」

「はい、あっ……」


 何だろうと近づいた私の体を引き寄せて、すっかり細くなった腕で抱きしめてくれました。中さんは最後の力を振り絞って私の大好きな『ギュッとしてナデナデ』をしてくれたのだ。


「また……一人に……ハァ……ハァ……なって……しまうな……ゴメンな……」

「やだ……まだ一人にしないで……」


「泣かせてしもた……ハァ……ハァ……悔いが……残るから……お願い……やから……うう……笑顔で見送って……」

「うん、これで良い?」


 顔は笑顔にしたつもりだったけれど、涙は止められなかった。


「そうや、それでこそリツコさん……う……ハァ……ハァ……力が……出ん」

「中さん!」


「お願いやから……笑顔で……見おく……ごめん……」


 それが最期の彼との会話だった。桜が咲く季節に彼は逝ってしまいました。


 あれから何度も愛し合ったけど、私たちは子供に恵まれなかった。二〇数年の結婚生活の後、私はまた一人暮らしに戻った。子種が無いとか先に死ぬから一人に戻るとか言われていたから覚悟していたけれどやっぱり寂しい。


 一人に戻った私は実家で暮らし始めた。店の方は中さんが跡継ぎを見つけて営業中。逝く前に始末をつけたのが何とも彼らしいと思う。


 店を継いだのは私が中さんと知り合った頃に店に出入りしていた本田君。店の名前も大島サイクルから本田サイクルへ変更された。今では新高嶋市のバイクショップとして真旭・高嶋・安曇河・朽樹に一店舗ずつ出店している。私の実家を借りていた今津兄妹はお兄さんが結婚して一戸建てを立てた。妹ちゃんは上京してバリバリやってるみたい。


 晶ちゃんは大津に転勤して白バイの教官になった。可愛い彼と結婚して一男一女を授かった。結婚式ではお色直しで新郎にウェディングドレス・晶ちゃんにタキシードを着せてみたりとなかなか楽しい式だった。タキシード姿の晶ちゃんの姿を見た女性陣の歓声の凄い事凄い事。旦那さんのドレス姿も可憐でハマり過ぎだった(笑)


 そんな晶ちゃんも定年まで勤め上げて、今では悠々自適。旦那さんも元気で息子さんと一緒にパン屋さんをしている。この息子さんが晶ちゃんそっくりのイケメン。もうビックリしちゃった。どの位ソックリでイケメンかと言うと、「くそ~! 生まれる時代を間違えたっ!」って感じ。もうすぐ旦那さんも一線から引いて店を息子さんに任せるみたいな話になっているとか。


 晶ちゃんとは今も家族ぐるみで交流がある。今年も桜の季節に花見に行った。さすがに大型バイクは乗ってないけれど、二五〇㏄のバイクとカブの二台体制。花見の時は旦那さんの車で来てくれた。


「もう大型は重くて無理! 二五〇にいはんでもきつくなってきた」


 バイクはカブに絞ろうかなんて言いながら笑ってた。


 イケメンだった晶ちゃんも孫が出来た。定年後はすっかりお祖母ちゃんしてる。見た目もお婆さんになった(笑)


 白バイに跨った晶ちゃんの写真を見た孫ちゃんも男の人と間違えたらしい。


「『バァバは男の子だったの?』は堪えた……」だってさ(笑)


 晶ちゃんの見た目だけじゃなくて、高嶋市も変わってしまった。今都町と蒔野町は旧・高嶋市から離脱して今都市となった。立派な市庁舎が出来たりしたけれど、気が付けば財政破綻してた。自衛隊が移転したのと原発が無くなって助成金や補助金が無くなったんだとかが原因だって。高齢化と米の輸入自由化も大打撃だったみたい。私が定年退職する何年か前には高嶋高校も真旭町へ移転したし、この何年かは行ってないから、今の今都市がどんな風になってるかは良く知らない。


 白藤理恵ちゃんは、いつか見た初夢みたいな事になってる。お相手は本田君。私達が結婚してしばらくしてから交際がスタート。同じ大学に通って、卒業後は本田君が三重県で就職、理恵ちゃんは地元で就職。しばらく遠距離恋愛をした末に結婚。今では本田サイクルの接客担当をしている。お猿さんみたいだった理恵ちゃんも今ではバイク屋の女将さん。子供は居ないけれど、二人は仲良しで幸せそうだ。


 本田君は「おじさんが言ってましたよ、『リツコは料理が下手やから、飯に誘ってやってくれ』って」って葬儀の後で話してくれた。中さんは全部御見通しだったんだなぁ。


 高嶋市は分裂して今都市・新高嶋市・朽樹町に別れて理恵ちゃんの夢通りになった。今思うと予知夢だったのかな? 新高嶋市と朽樹町は湖西広域連合として色々な面を助け合って街づくりを続けている。


 一時期、今都市との再合併の話が出たけど、いつの間にか無くなってた。


 新高嶋市とは言っても、ほとんど何も変わらない。変わったと言えば、一六一号線バイパスが完全開通したくらいかな?


 私は中さんの作ったカブに乗って安曇河までお買い物に出かけるけど、やっぱり安曇河・高嶋の田舎臭さは抜けない。時の流れが緩やかなこの街は、これからも大きく変わる事は無いだろうと思う。少なくとも私が死ぬまでは変わらないはずだ。


 今の我が家はゼファーちゃんとリトルちゃんだけがガレージに居る。


 ジャイロは部品が出なくなって修理も出来なくなったから廃車。私が下宿するきっかけになった倉庫の主は引っ越しに持って来た途端にエンジンがかからなくなった。不思議な事に本田夫妻がキックするとエンジンがかかる。私じゃなくて店の主にしかエンジンがかからないおまじないがかかってるらしい。だから置いて来た。


 中さんと出会ったのがスーパーカブ六十周年。あれから四十年経った今年は百周年。スーパーカブ百周年は驚きだけど、四十年間大きな故障も無く走り続ける私のリトルちゃんだって大したもんだと思う。中さんがきっちり仕事したからだな。いつだったっけ?


「美人が来て、張り切って組んだんや」


 そんな事を言ってたなぁ……照れながら笑う中さんの顔が浮かんできた。


 今ではハイブリッドのスーパーカブがリッターあたり八〇〇㎞走る時代。私のリトルちゃんはリッター六〇㎞位しか走らないからガス喰いの部類に入る。ガソリンスタンドが減った昨今は燃費が良いと言われたスーパーカブでもロングツーリングは難しい。もっとも、私の体力の方が厳しいけど。


「独りで良いも~ん、寂しくなんかないも~ん」


 ……本当は寂しいけど、まぁ自分が選んだ道だ。仕方がない。


 中さんとの想い出のリトルカブは今でも絶好調。本田君の整備のおかげで今も日常使いが出来る。


「最近はリトルちゃんばっかり乗ってるねぇ」


 ゼファーちゃんの出番は減った。たま~に晶ちゃんの所へ乗って行くけど、やっぱり重い。良く考えたらゼファー一一〇〇も五〇年以上前のバイクだ。純正部品は壊滅的だけど、リプロダクトの部品で何とか生き残ってる感じ。リトルちゃんと二台体制にして労ったから長持ちしたのかな?


「ゼファーちゃんとも長い付き合いだね、乗ってあげられなくてゴメンね」


 リトルちゃんにワックスをかけたあとはゼファーちゃんにもワックスがけ。


「ふんふんふ~ん♪ ……あっ」


 ドスン!


 何かの拍子でサイドスタンドが外れてゼファーちゃんは横倒しに……そして、運悪く私の上に乗っかって来た。上に乗られるのは久しぶり……なんて言ってる場合じゃない! 重い! 死んじゃう!


「うっ……くっ……重い……重いよぅ……ゼファーちゃん、どいて」


 今も五〇代と思われる位の見た目だけど、中身はやっぱり七〇歳。ゼファーちゃんをどける事が出来ない。どれだけ力を入れてもゼファーちゃんは動いてくれない。


「重い……重いっ……助けて……助けて……」


 ゼファーちゃんの下から抜け出す事が出来ない。意識が遠のく……どうしてだろう……懐かしい声が聞こえる。


「リツコさん……リツコさん……行こう……」


 中さんの声が聞こえる。私にもお迎えが来たみたい……。もうっ……遅いよ……中さん……久しぶりに撫でれ……ギュッとしてから撫でれ……。




 ここは滋賀県高嶋市。かつて小さなバイク店が有った。その名は大島サイクル。店主の大島が整備したバイクには魂が宿ると言われ、そのバイクに乗った者は皆笑顔になったそうな……だが、一人だけ泣く者が居る。店主の大島に先立たれた人生の伴侶であるリツコだ。だが、それも今日で最期となる。


「私は大島リツコ。バイクの下敷きになってこの世を去る……」




◆        ◆        ◆




「何言ってるんや? 婚約指輪買いに行くんやろ?」


 枕元にしゃがんだ中さんが変な物でも見る様に私の顔を覗いていた。


「ほへ?」

「ずいぶんうなされてたけんど、変な夢でも見たんか?」


「夢?」

「むにゃむにゃう~んう~ん言うてたで」


 妙にリアルな夢だった。おかげで寝汗でビッショリだ。


「出掛ける前に、ご飯やな。シャワー浴びてる間に用意しておくから」

「うん……」


 夢は正夢になるのかもしれない。でもそれでも良いかな……。


「中さん、私を置いて逝かないでね」

「お揃いの指輪を買いに行くんやからそれは無い」


 何か会話が嚙み合ってない気がするけど……まぁ良いか。


 幸せと炊き立てご飯を噛みしめながら、今日も私の休日が始まる……。

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