三題ショート

結城 小五郎

「人影」「桜餅」「文庫本」

PM 11:12

 

 終電まであと一時間あるかないか、そんな時間に電車の座席に座った私は、しがない新入社員である。

 世間一般で言うところのブラック企業に就職してしまったのだろうか。単に忙しい時期なのだろうか。そんなことは入ったばかりの私にはわからない。もしかしたらこれは常識の範囲内で、おかしいのは私なのかもしれない。

 「次は、下板橋。下板橋」

 二駅目に到着しようとしている事を告げる社内アナウンス。

たった六駅の自由時間。電車を降りたら自転車に乗って家に帰って、また明日仕事をするためにさっさと寝る。SNSは楽しげな学生や友人を見て心が荒むが故に暫く前から封印。趣味のアニメ鑑賞は停滞。楽しみと言えばこの短い自由時間を活用しての読書であった。

 中高生の頃夢中になった小説というものは案外内容を忘れているものであるようで。家の本棚で眠っていた文庫本をつい最近、なんとなく目にとまって鞄に入れたのである。それからと言うもの、就職以来灰一色だった私の生活に彩を与えてくれた。

あとたったの四駅。通過電車を待ったとしても十分程度の自由時間を有効に使うべく、私は角のすり減った文庫本を取り出した。

 数多の犠牲の上に立つ事になった主人公のとても華やかとは言えない旅路。それでも自らの信念を貫いて行動する様は、丁度逆境真っただ中の自分にも活力を分けてくれる。そんな気がした。

 そろそろ残り一駅くらいだろうか。アナウンスを聞こうと少し音に意識を向けた私は、どこか懐かしさを感じさせる声を聴いた。


「もう君は充分頑張った。このままでは盲目なまますり減ってしまう魂よ、はやくこちらに帰っておいで」


 優しい声。暖かい声。信用して、すべてを預けたくなるような。


 気が付くと私は、一面の桜の中に立っていた。

 道さえない、ただひたすらに、満開の桜が咲いている。

 地面さえも花弁で埋め尽くされている。

 空の色ですらも、桜色に遮られている。


「なんでだ」

 思わず口に出してしまった、状況確認のひとこと。勿論誰も答えてはくれず、ただ風が桜を揺らすのみ。

 ここはどこだ。電車はどうした。あの仕事が終わってない。とめどなく溢れる疑問と不安を抱えつつ、帰り道を探すべく歩き始める。

 二分ほど歩いたところに、ぽつんと黒い鞄が落ちていた。無論、私の持っていたものである。中身は無事だろうか。駆け寄った私の視界の端に、ふと違和感のあるものが映る。

 桜と幹で塗りつぶされた世界に、白い人影を見た気がした。


 心に安堵の感情が浮かんだ。人がいる。私の疑問を解決してくれる。根拠のない自信に満ちた私は、人影を見た方向に走る。それはもう数年ぶりの全力で。とても人にお見せできない。


 かれこれ五分ほど走ったところで、違和感がひとつ。全く疲れていないのだ。

日々のデスクワークでなまった体。そうでなくとも運動はできる方でないし、真剣に取り組んだことすらない。それなのにである。

 こんなに心地のいい事は生まれて初めてだ。そう思えるほどの快感に夢中になった私は、それから数時間は走った。その笑顔は徒競走で一番になった小学生たるやと言った具合であっただろう。その笑顔は、ある時にまた驚愕一色に染まる。


 突然開けた大輪の桜。丸く大きな広場のように開けた空間。

 その向かいには、大木と言う言葉では足りない、まさに巨木と言った具合の桜がまた、夜空を背に満開であった。


 その根元にまた人影を見た私は、広場の直径、三百メートルはあろうかという距離をまた全力で駆ける。

 その人影はなにやら巨木と一体化するように消えた。よく見ると、扉のようである。

根元まで急ぎ扉を開けた私の心は、異様な景色に目を奪われた。三度目の驚愕である。


 巨木の中は空洞になっていたようで、壁一面にはモニター。映されているのは監視カメラの映像であろうか。定点で、俯瞰のものばかりだ。部屋に照明のようなものは無いが、モニターの光でなかなか明るかった。

 その空洞の中心には丸いテーブルの一対対面に置かれた椅子。テーブルの上にはいくらかのお菓子とティーセット。そして片方の椅子には白衣を着た男が座っていた。

 男はこちらに向かって微笑み、もう片方の椅子に座るよう促してくる。私は促されるがままに空いた椅子につき、ちょうど前に置かれていた桜餅に手を伸ばした。


「おかえり。思ったより早く到着したね」

 それは電車の中で聞いた声。そこで安心しきった私は、ふいに涙を流してしまった。

 しかし、この安堵は次の一言で大きく裏切られる事となる。

「じゃあ、さっそくここで、成仏しよっか」

 聞き間違いだろうか。聞き返す。

「いやね、このままだと君はもうすぐ過労で死んじゃうんだ。だから先に死んでもらって、その魂を次の世代の足しにしなきゃ。って噛み砕いて説明しても、よくわかんないよね。要するに、こっから先生きててもしょうがないからとっとと死んどこうって手伝いをしてるんだ。僕は」

「勝手に殺してくれるな!」

 声を荒げた。そんな勝手な。事情もよく知らないが、例え生活がぼろぼろだろうとも私は突然殺されて納得したりはできない。彼にそう言ったところ

「君もそうやって理由をつけて無駄に生きようとするのか。これじゃ今月のノルマも怪しいぞ。仕方ない。君は保留だ。あと一年、三百六十五日きっかりでまた君をここに呼ぶ。その時までに考えていてくれ。どうしても無駄に生きていたいとしてもその時言ってくれ。大丈夫。どうせ一年もしたら決心はついてるさ」


 それを聞き終わるか否か、私の視界はまるでチャンネルを回したかのように、一瞬で見覚えのある空間を映した。

 ガタン、ゴトン。持っていた桜餅は文庫本に。一人掛けの椅子は電車の座席に。あれは夢だったのだろうか。






PM 11:08


 あれからちょうど一年。何も変わらない生活。一年分増えた録画。友人からの連絡は反比例するかのように減った。

「ほらね。あの時言ったでしょ」

 聞き覚えのある声。心安らぐ声。

 気付けば目の前には桜の巨木。

 今の私に迷いはない。扉を開けて男に告げる


――私は

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