カタハネ
文陸 叶乃華
第1話 バランス、悪ぃな。
9月の終わりだというのに、
空気は生温かった。
じっとりと暑い。
マンションのエントランスで、
いつ来るのかも判らぬ母を待つ。
氷臣の母は、化粧はしない。
しかし、氷臣を待たすことに罪悪感はない。
故に、いつ来るのかはわからない。
小さな音。
ブレーキの軋む音、だ。
郵便屋の赤い自転車、が、
すっ、と、一迅の風をもたらす。
「408の郵便物、ありますか? 」
僅かの気取りを気付かぬままにちょい隠して
氷臣は、聞いた。
特に待つ便りのある訳ではない。
だが、氷臣は待っていた。
何処かから舞い込んだ、知らせが、
今の暮らしを打開してくれるのを。
すべてから、氷臣を拐ってくれる幸便を。
ただ、待つだけが、総ての日々だ。
「特には、ないですねー。」
愛想のない涼しさ、で、彼は云った。
「そうですか。」
ありがとうございましたー、
ひといきの流れ作業で、ちいさく口にし、
頭を垂れる。
そこにやや遅れて、
舌打ちと共に付け加えられた、ちいさく苦い呟きを氷臣は拾う。
はっ、とした。
「……バランス、悪ぃな。」
振り返れないまま、氷臣は思う。
制服の着くずし、失敗したか。
ハイソックスにしとけば、よかったかなぁ。
何の理由もなく、
自分を貶されたものと受け止めるのは
思考の癖、だ。
「なに、考え事?」
いつのまにか、母が氷臣の後ろに居た。
深い青のツーピースに、口紅だけ、が夜目にも鮮やかなピンク、だ。
「いつもそうなんだから。」母は、云う。
ーそうかもしれない。
考えの中では。
考えていることだけなら、氷臣は自由だ。
なにものにもとらわれず、
自由なままでいられる。
郵便屋の赤い自転車が過ぎ去って、
涼しさ、が、制服のスカートの裾を揺らし、過ぎてゆく。
温い空気、を切り開いてくれそうに。
もうその風なら、
たしかに秋のもの、だった。
第1話完・第2話につづく。
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