雨と無知

ノグチソウ

雨と無知


 雨は、いつも大切なものを見えなくする。


 大学二回生の、冬の話。

「あら、先輩。奇遇ですね、お久しぶりです」

 コーヒーと雨音がお供の読書中、喫茶店内の静寂を破ったのは、我が後輩の挨拶だ。店内は珍しく、俺たち以外に数人しかいない。

「何だ、赤尾か。お前も雨宿りか」

「ええ」

 ついさっき降り始めた雨で、彼女の髪は濡れていた。店員から渡されたタオルで服などを拭きながら、乱れた息を整えている。走ってこの店まで来たのであろう。

「今日の研究会は、休みなんだな」

「先輩は冬休み前から、とっくに幽霊部員を決め込んでいるじゃあないですか。……あれ、なぜ休みだと分かりました? いつも土曜日は活動日だから、さぼったかもしれないでしょう」

 首を傾げられた。薄く化粧のされた口元にはやはり平常の微笑みがあった。

「会長は変人だが、ああ見えて粋だからな。そうかもしれないと思っただけだ」

「粋ですかねえ、私はあの会長が苦手だからよく分かりませんけれど」

 腕時計を見る。まだ昼過ぎだ。

「いい加減、研究会にも顔を出してくださいよ」

「アルバイトが忙しいんだ。冬休みも始まったばかりだから、そのうち行くさ」

 立ったままの赤尾に軽く受け答えながら、窓の外に視線を向ける。ざあざあ、と店内のBGMには邪魔が入っている。

「これからどこかへ行くのか」

「秘密ですよ。教えたら、先輩は何か言うかもしれませんから。人間は皆、行き先を自ら決める権利を持つのです」

「まあ、選択肢の数は人それぞれだが」

 例えば俺と赤尾のように、極端に選択肢の量が違う場合もあるのだ。

 それにしても、予定。

「それなら、俺の予定も秘密だ。極めて個人的な場所だからな」

 聞かれる前に答えると、赤尾は驚くほどににっこりと笑いつつ、

「ついていっても、いいですかね」

 と言った。

 嫌な奴だ。

 俺は一気にコーヒーを飲み干し、その面倒な質問に返答する。

「いや、まだ時間があるから、しばらくいようかと思っているんだ。傘もないしな、コーヒーを楽しんでおくさ」

 おかわりを頼もうとすると、赤尾が向かいの席に座ってしまった。

「面白いことなんて一つもないぞ」

「面白いことは、無為から見出すものですよ」

 俺は理屈をこねるほうではないので、何も言わないでおく。

 しかしやはり、彼女は面倒だ。


 朝のニュースの降水確率は、五十パーセントだった。この場合、天気予報の存在意義は完全に消失してしまう。

「ちなみに最近のミステリ研では、会長の気まぐれで、ミスリードとレッド・へリングの研究をしています」

 彼女にココアが運ばれてくる。猫舌らしく、カップに息を吹きかけながら、聞いてもいない近況報告をしてくれた。

 あの会長は気まぐれすぎて思考展開の方向性が読めず、それでいて俺たち会員のことはすべて見通している。妖怪のようだ、と常々思う。

「赤ニシンは、あの会長にしては趣味のいい研究対象だな」

「赤ニシン?」

 少しくらい勉強しろ、とひそかに呆れる。

 レッド・へリング。直訳の場合、『赤いニシン』を表すが、ミステリを中心とした小説用語と見ると、まったく意味が異なる。端的に言うならば、『大事な描写から読者の注意をそらす技法』である。ミステリでは、伏線があからさまにならないように使われる。作家の実力が顕著に表れる部分とも言える。

「日本語にすると、かっこ悪いですね」

「だから英語なんだろう。日本人は、かっこよさや都合のよさだけを重視して、国を問わず、有形無形問わず取り入れる傾向があるからな」

「風刺的ですね。まあ、私はミステリ用語なんてどうでもいいんですけれど」

 どうでもいい、という言葉を心から言っているのが伝わり、わずかに傷つく。

「赤尾、本当に興味がないんだな」

「ええ。その本もミステリでしょう、面白いですか」

 俺が会話しながら読み進める文庫本を指差す。

「ああ、謎が魅力的だ」

「常に小説にブックカバーをつけて、丁寧に扱っていますよね」

「どんな場合でも本に罪はないからな。綺麗に扱うのが礼儀だ」

 今も、コーヒーはゆっくり飲むようにしている。こぼすなど論外だ。

「ふうん。私は、ミステリは綺麗なものとは思いませんので」

 そう見る人も多くいるのは事実だ。

 俺がミステリ研に入ったのは本意ではないにしろ、確かにミステリはマニアと呼べるほどに嗜んでいる。

 しかし、この後輩は違う。

「それに、私はただの名探偵ですから」

 偉ぶることもなく、ただそのを認識して、ミステリ研に所属するだけの女子なのだ。


 大学二回生の夏、つまりは数か月前、俺は彼女と出会った。

 過度に陽気な性格とは裏腹に、その頭脳は実に聡明。初めての会話ですぐにそれが感じ取れた。その時点で、彼女は既に少し有名だったが、さらに有名にした出来事が、構内連続放火事件である。

 教授や学生の持つプリントが燃やされるという小規模かつ危険な事件。警察が動き出す直前で止まったのは幸運だった。数件起きた時点で、解決したのだ。

 赤尾二子にこという女子学生が、たった一人で犯人を暴いた。それは大学全体に広まり、彼女は学内限定の、時の人となった。

 名探偵となったのだ。 


「ニシンはともかく、お腹が空きました。何か注文しますか」

「おごらないぞ」

「ケチですねえ」

 彼女が頼んだのは、今日限定の巨大パフェだった。いまだに俺は、女子の別腹という器官がどこに繋がるのかを知らない。

「赤尾、洗濯物とか取り込んで来たほうがいいんじゃあないか」

「さりげなく、私に帰宅を促さないで。大丈夫ですよ、私は実家暮らしですから、母がいます。先輩こそ、他人ごとではないはずですよ」

 俺は、自分のことでさえ他人事のように考える傾向がある。

 他人事も自分のことのように見る赤尾とは、全くの逆だ。

「俺は大丈夫だ。ただ、さっきも洗濯物を取りに帰った客がいたからな」

「この喫茶店には、よく来るのですか」

「ああ。マスターとも愚痴を言い合えるほどに仲良くなった。知らない人と相席になっても、一時間は語り合える」

「それは、もはやバーです……」

「それは冗談としても、ペンなんかを貸してほしいと、気兼ねなく言い合えるくらいには話せるさ」

 マスターと仲がいいのは事実だ。赤尾の愚痴もよくする。

「ところで、先輩に朗報です」

「パフェをおごってくれるのか」

「貧乏なんですか。実は近くの本屋で、お忍びでミステリ作家が来て、サイン会をしているそうなんです。作家の名前は確か――」

 彼女が出した名前は、ミステリマニアでなくても耳にするくらい有名だった。

「それは誰からの情報だ」

「この前、会長が話しているのを盗み聞きしました」

 なるほど。あの会長には、本当に驚かされる。

「会長は、苦手なはずじゃあなかったのか」

「盗み聞きするだけなら、関係を持たずに済みますから。会いたくないほど苦手ですが、会うのだけは仕方ありません」

 赤尾と会長の相性は最悪と言える。『よく会うが、全く合わない』というのが赤尾の言。聡明であるがゆえに相手の考えをよく知ろうとする彼女だからこそ、会長の『読めなさ』を気持ち悪く思うのだろう。

「まあ、俺も理由がなければ会いたいとは思わないな」

「あれ、その店が行き先だと思っていたけれど、違いましたか」

「俺は、行列に並ぶのが嫌いなんだ」

「誰かが定めた道でなく、俺は俺の道を行く、ですね」

「そうまとめるとかっこいいが、違うからな」

 閑話が一段落ついたところで、パフェが運ばれてきた。白いクリームの中に、果物たちが埋蔵されている。

 彼女は、スプーンを持って一旦眺めてから、満足そうな表情でその白い山を崩し始めた。

 おいしそうに食べる顔を眺めていると、唐突に甲高い音が鳴った。赤尾の携帯電話の着信音である。

「あ、電話を取ってもいいですか。あと、食べてもいいですよ」

 俺はまず首肯し、次にかぶりを振る。どちらの言葉も、俺の答えを知った上で言っているのだろう。

「もしもし。ああ、久しぶり。……今夜? ……今夜は、ちょっと用事が入ってしまって。先輩の家に行くことになったのよ」

 ちらり、と目が合う。

「……そうだけど。大丈夫よ、本当は悪い人じゃあないから。……とにかく今日は三人だけで行ってね。ごめんね、また今度」

 ぴっ、と通話終了音がしても、特に俺は何も言わず雨を見てコーヒーを飲む。

 沈黙。

「……その顔は何を表現しているんだ」

 さっさと言えばいいものを、赤尾は俺の顔を物欲しげに、にやにやと見つめるだけだったので、俺から声をかけた。

「お願いを聞いてくれるかを推理している顔です」

 推理というものを根本的に間違えている、と現実の名探偵に呆れる。

「それなら、断られるのが真相だ。友達は大切にするべきだ」

「じゃあ、友達のいない先輩は何を大切にするのですか」

 即座に悪気のない悪口を言われた。さすがに、言葉に詰まる。

 始まった、と理解したためだ。

「私を」

 と、俺が黙っていると、彼女は強い語気で言う。

「私を、大切にしてはくれませんか、『青鬼』先輩」

 店内にあまり人がいなくてよかった。コーヒーを、少し飲む。

 これが、彼女からの何度目の告白か、もう覚えていない。


 夏の構内連続放火事件の犯人は、俺である。

 アリバイトリックも、密室放火トリックも、すべて赤尾につまびらかにされた。否、『された』のではない、彼女に非はない。

 皆の前での糾弾も、事件に彼女を関わらせたのも、すべて俺が誘導したためだ。悪は、どこまでも俺である。

「あのとき、私を守るために事件を起こしてくれました。わざと解決の手がかりを残して、推理を促して。高校で問題を起こしたという噂が広まり、避けられていた私を救うために事件を起こしてくれました。先輩は、私の大切な『青鬼』です!」

俺にとって、【泣いた赤鬼】は嫌いでも好きでもない物語だ。青鬼の押しつけがましさに納得できないのは俺だけではないはずだ。

 放火も、彼女の過去に関する書類を焼くためだけではなく、点が取れそうになかったテストを焼失させて、延期させる目的もあった。自分のためでも、あったのだ。

 偽善は善で、偽悪は悪。つまり、俺は悪である。それでいい。

 視線を横に動かすと、窓の外は、まだ雨が世界を見えにくくしていた。

「先輩に友達ができないのは、私のせいです。悪を演じたせいで、嫌われて……」

 ……友達は確かにいない。

 しかし事件後に、『君達は見所があるよ』という会長の意味不明な勧誘で、俺も赤尾もミステリ研究会に入れたのだ。仲間は、友達にはなりたくない変わり者たちばかりだが。

 友達はなくとも、仲間はいる。だから、赤尾は悪くない。

 悪くないのだから、そんな顔をしてほしくない。

「青鬼なんかのどこかいいんだ」

「『好き』に、理由は必要ですか」

 理由のない物事も存在する。俺の偽悪のように。

 涙を流したまま、もはや睨んでくる赤尾。

「なぜ、私では駄目なんですか」

 彼女の潤む目を見る。そこには俺とは違う、善の光があった。

「いいか、赤尾。よく考えてみろ」

 俺は、理屈をこねるほうではない。

 だから、精一杯の屁理屈を言うのだ。

「お前を恋人にしたら、友達を作れなくなるだろう」

 きょとん、と音がした気がした。数秒固まって、言葉を飲み込んだらしい赤尾は、涙を拭う。そして。

 あはは、と笑った。

「先輩は、どこまでも面白いですね」

 心から笑っているかは、名探偵ならざる俺には不明だ。

「まあ、今日くらいは諦めてもいいでしょう」

 これまでの数多くの屁理屈は、無視してくれるらしい。

 これで、いいのだ。

 安堵も束の間、彼女は涙を止め、再びにやにやし出した。

「でも、相合傘くらいやってくれますよね」

「……証拠は」

 やはり――こうなるか。

 気づかれていたらしい。とっさの嘘は、苦手なのだ。

「先輩はときめくほど聡明です。初めの会話での『傘がない』という嘘は、『相合傘』を回避するためだったんですね。でも、甘い。証拠は三つ」

 三本指を立てる。これは彼女の生来の名探偵らしさの一つだ。

 意義の薄い回答編。

「一つ目。先輩は文庫本を異常なほどに大切にしますよね。それを手ぶらで、カバンもなしに、雨の中でどうやって持ってきたんですか」

 確かにポケットに入れただけでは濡れてしまうし、何よりも入りきらない。まさか、背で庇ったとも考えるのも難しい。

「先輩、傘を差して読書しながら来たんじゃあないですか。二宮金次郎よろしく」

「証拠としては弱い。どうにか持ってきた可能性はある」

「じゃあ二つ目。先輩はここのマスターとかなり仲がいいそうですけれど、用事があるなら傘を借りて早く行けばいいのです」

 もっともだ、しかし。

「俺は用事が何時からか、言っていないだろう。まだ時間があるから傘を借りていないんだよ」

「用事まで時間があるなら、残り時間くらい確認します。先輩、私が来たとき以来、腕時計にも店内の時計にも目も向けていないですよ」

 確かにそうだ。窓の外ばかり見ていた。

「ずばり極めて個人的な場所というのは、家ですね。用事などなく、ただただ暇つぶしの読書が目的でしょう」

 ……あがこう。

「確かに俺は用事がない。ただ、それは別に隠すようなことではないだろう。俺が、暇であることを隠した理由は?」

「それは今日だからでしょう」

「今日?」

「今日は、クリスマスですよ。お忘れですか」

「……覚えている」

 忘れたかった。しかし、限定パフェやら外来語の話題やら、あとは会長の粋な休日提供やらから想起してしまうのだった。彼女に誘導された可能性もあるが。

 よく考えてみると、赤尾の告白を含めた現状の原因は、この忌まわしい祝日にあるのではないか?

「友達のいない先輩でも、さすがにクリスマスを一人で誰にも合わずに過ごすつもりだったというのは言葉にしたくなかったんですよね」

 俺は黙っている。別に、暗に暇人極まれりと揶揄されたからではない。彼女の推理には、耳を澄ませていたい。

「そして三つ目。用事がないなら、さっさと帰ればいい。しかし傘立てを見たところ、以前に見た先輩の傘はなかった。マスターに借りる気もない。それなら、一つの可能性が生まれます。傘を返してもらうためにここにいる、という可能性」

 鋭いな、と感心する。

「ところで今日の天気予報は、どっちつかずでしたね。傘を持ってくるかどうかの判断も分かれるところです。私は持ってきませんでしたが」

 まさかそれも相合傘のためか――などとすべてに意味を見出していると疲れるので、考えるのをやめる。

 世界はもっと、単純なほうがいい。

「先輩は、他の客との仲の良さを示すとき『物を貸し借りしあう』という例を出しました。それは、すぐ前にそういうことがあったからとっさに出た例なのではないですか。それと雨を合わせて考えると、傘の行方が見えてきます」

 笑みは崩さない。余裕を持った顔で考えを告げてくる。

「私が来る前に。他の客に、『洗濯物を取り込んでくるから傘を貸してほしい』と頼まれた、とか」

 俺は何も言わない。

「これなら先輩が帰らない理由も、窓の外をずっと見ている理由も分かります。どうですか、この推理。おそらく穴はまだありますが、何より先輩がわざわざ手がかりを残すということはこれくらいの簡単な真相でしょう」

 そこまで手がかりを残したつもりはなかった。ただまあ、現実でミステリを成立させるには、『誰かが作為的に残した痕跡』の存在が不可欠だというのは、俺の持論だ。

「さすが、細かいところを突いてくるな。確かに俺は、傘を持ってきたよ――」

 だからこそ今回は、俺の勝ちなのだろう。

「ただし、少し違う」

「え」

「嘘ついて悪いな。用事は既に終了していたんだ」

 すると店の扉が、からん、とよく響いた。タイミングをよくわきまえた登場だ、と感心する。そいつは、まっすぐにこちらへ歩いてきて、俺たちの向かい合うテーブルの横に立った。

 もちろん、我らが変人会長である。

「やあやあ、お二人さん」

「え、何で」

「邪魔して悪いね、赤尾さん。これを渡したら、すぐ帰るから」

 そうして、ショルダーバッグの中から小説を取り出す。しっかり表紙には、黒いペンでサインがあった。本を受け取りながら、俺は言う。

「サインを二つも貰うなんて、どうせ巧みな話術で気に入られたんですね」

「酷いなあ、君は。代わりに何時間も並んだ先輩に向かって、感謝の言葉もないのかい」

「何のことやら、俺にはさっぱり」

 会長は軽く責めているようだが、笑顔だ。赤尾のそれとは違い、余裕のある敵役が浮かべるような表情で、あまり好ましくはない。

「酷いなあ、やっぱり。まあ、悪くない展開だからいいや。それでは二人とも、また大学で会おう」

 赤尾には特に何も言わず、そして赤尾も何も言えず、会長は再び出ていった。

 俺の傘はちゃんと、傘立てに戻していた。流石に盗みはしなかったようだ。

 事前にお忍びサイン会の情報を入手したこともだが、それをわざと盗み聞きさせる手腕には感心せざるを得ない。

「ミステリでは定番のミスリードという奴だな」

 いつの間にか、また赤尾が睨んでいた。


 回想および解答。

 朝のこと、会長から電話があった。曰く、秘密のサイン会なるものがあるので、本を貸してもらえればそれにサインを貰ってきてあげる、という。

 ミステリだけは会長と趣味が合う俺は、別にサインが欲しいわけではなかった。しかし、せっかく貰ってくれるというのなら、断る理由もない。いつも暇を潰す喫茶店を教えていたので、そこで待ち合わせることにした。

 晴れてはいたが、傘も一応、持って行った。

 本を渡して、早々と用事が終了したと思うと、会長は至極どうでもいいように言った。

『あ、ところでこの後、赤尾さんが来るから帰っちゃ駄目だよ』

『何の冗談ですかね』

『君が休日に暇を潰す場所を尋ねられたから、渋々答えたのさ。渋々ね。今日はバイトも休みだと、伝えておいた』

『それも渋々?』

『これも渋々。今日が何の日か忘れていないよね』

『……今から全力で忘れますよ』

『忘れてもそうでなくても、赤尾さんは来るよ。告白を何度もされる主人公なんて、ラブコメディみたいだね』

『なぜ、それを俺に教えるんですか』

『いやいや、ちょっといい金言を思いついたから、一緒に伝えに来ただけさ』

『どうでもいいです』

『停滞は、一時の安心感と、長い悲しみを生む。何のことかは考えろ』

『……なるほど』

『うん。その二マス分の沈黙と、納得の言葉があれば十分だ。僕はもう、サイン会に並びに行くよ』

『会長は……何がしたいんですか?』

『何かがしたいんだ。そうしないと、人間も停滞する。僕は、悲しい物語は嫌いだからね。ハッピーエンドを期待しているよ』

 どこまでも嘯き、会長は台詞を捨てて去って行った。

『ああ、雨が降りそうだから、傘を借りて行くよ。もし帰りたいなら、雨が降る前に帰りたまえ』


 現実に戻る。

「ああ、恥ずかしい……」

 赤尾はテーブルに突っ伏して、後悔している。

「赤尾、これから暇か」

「先輩の二乗くらい暇を持て余していますよ」

 それはなかなかの量の暇だ。それなら、別に見栄を張る意味はなかったのだ。

 後輩を、全力で騙してしまった。流石に先輩として、厳しすぎたかも知れない。

 ……だから、ということにしておこう。ため息をついて、彼女に告げる。

「俺の家に、来るか?」

 再び彼女はきょとんとした顔を見せ、すぐに目を輝かせてテーブルを乗り出して叫んだ。

「行きます!」

 会長の金言は、憎いほど正しい。停滞は、悲しみだ。たとえそれが、悪役の恋物語でも。

 不幸を目的地としていても、一歩は必要なのかもしれない。 

「嬉しいです。けれど、少し長すぎますよ」

 まるで最後には俺が折れると知っていたかのような、台詞だ。

 会長はどの展開まで『読んでいた』のか、俺は知らない。

 俺も彼女も、賢いだけの無知な人間だ。

「だが、パフェの代金は自分で払えよ」

「やはりケチですねえ」

 悪いが、パフェに懐を攻撃されるのだけは嫌だ。


 店を出て、傘を差す。横に赤尾が入ってくる。俺の顔を見て、うれしそうに笑った。

素敵な笑顔だ、と思う。

 行き先の選択肢の数は人それぞれ。極端に少ない奴もいる。

 ただし二人だったら、二倍になる。それは、重要なことだ。

 さあ、どこへ向かおう?

「雨ですね」

「雪よりましさ」

 外来品の祝日には、いまだに納得がいかないが。レイニークリスマスも悪くはなかった。

 そうして、雨の中を俺達は歩く。

 そういえば、邪魔な雨のせいで忘れていた予定があった――


 プレゼントくらい、買ってやろう。


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