エリスと黒刻の騎士団

新感覚

第一話 幸せな日常

1911年10月26日 『ニューオルレアン市街メルクリウス』にて・・・・・・


 ここはフランスではない。だからパリの美しい町並みなどなかった。凱旋門もエッフェル塔も存在しない、どこにでもあるようなただの商店街。だけど、あの国に負けない所だって一杯あった。狭い人ごみの上で鳥が自由に飛んでいる。下を見ず広い空を飛び続ける。人々は今日も外を歩く。それぞれの目的、役目のために散歩のように並んだ店の列を見て回る。


 大人はいつものように働き子供はいつもように遊ぶ。男は道具の材料を加工し女は完成した物を売っていた。若者は鉄や木材を運び老人は畑を耕す。公園では幼子達が手を繋いで輪になり仲良く笑い合う。こうして絵に描いたような幸せな風景は次の明日へと続いていく。


 例えどんな困難が訪れても人々は決して笑顔を絶やさなかった。辛いと分かっていても大切な誰かのために必死になる。人間は魚のように泳げない、鳥のように飛べない。そうだとしても助け合い絶望の中から這い出す。何年もそうやってこの地を生き残って来た。昨日も今日も明日もそれは途切れる事無く続いていく。


 こんなにも誇り高い人生を誰が恨めしく思うのだろうか?


 ニューオルレアンは今日も晴れ、メルクリウスの22番地の住民は賑やかな一時を過ごしていた。いつもと変わらない風景に酔いしれながら平穏な日常を送る。その場に店を構える1軒のパン屋でも同じだった。小麦を捏ね焼いて作られたその香ばしい品々は店に入った客人を魅了した。2人の女性が店員を務めている。大人と子供の1人ずつ、元気に働く。


「ベルギーワッフルをください。」


 背の高い貴婦人が言った。彼女はついでに子供用のキャンディーの隣にあった紅茶の袋を掴み取りレジに置く。


「畏まりました。エリーネ、レジをお願い。」


「分かった。」


 エリーネと呼ばれた少女は少々焦りがちで注文されたベルギーワッフルを取り出す。客人を待たせぬよう急いで茶色い紙袋に詰め紅茶の隣に置いた。


「お待たせしました。1フラン(この時代で言えば1500円くらい)です。」


 貴婦人は優しく微笑み支払いを済ませると店から去っていった。今のところ店内には誰もいない。親と子の2人きり。その間にエリーネはオレンジジュースを飲み一息つく。プレッシャーのない安心感に静かに息を吐いた。


「初めての頃と比べて大分慣れてきたわねエリーネ。」


 彼女の母親も背伸びをしながら上達した我が子を褒める。


「母さん、今の私はニューオルレアン人『エリス・ルブランシュ・ド・ペルスュイ』。『エリーネ・ルテルム』は昔の名前よ?」


「親子なんだから旧名でいいじゃない。私もあなたもベルギー人よ。」


「ベルギー人か・・・・・・、かつての生活を思い出すわね・・・・・・」






 2人は数年前に離れた故郷を思い浮かべた。エリーネはここの暮らしにはすぐに慣れ何不自由なく生活している。ニューオルレアンに来てから友人はまだ出来ていなかったがフランス人の恋人と巡り会えた。しばらく会っていないが隣国へ手紙を送っている。


 その反面、彼女の両親は違った。何とかパン屋を営み何とか平凡な生活を送るのに苦労している様子だった。エリーネの見えない所で父親は頭を抱え母親は泣いていた。我が子の幸せを思い深刻な問題を隠していたのだ。


 世界は今まで以上に混沌としていた。この国だっていつまで平和が続くか分からない。明日には他国からの攻撃を受けるかもしれない。フランスが戦争を始めれば属国のニューオルレアンでも無論、徴兵制度が始まる。若者はライフルを手に船に乗せられ敵の本土へと赴く。


 ベルベル人が引き起こした大規模な反乱を鎮圧するためフランス兵はモロッコへと出兵。ドイツ政府はイルティス級砲艦『パンター号』をアガディールに派遣、国際紛争が勃発する。この事件により両国の関係は悪化しいつ本格的な戦争が起きても可笑しくない状態となった。


 幸いニューオルレアンが被害を被る事は無く最悪な事態は避けられた。夢物語の終わりのように幕は閉ざされ人々は一時期安堵している。しかしこの日々が明日も続く保証はない。


「そう言えばこの街に『ジリアン・オールディス』が来ているのよね?」


エリーネの母が言った。


「ええそうよ、イギリス人でありながらフランスを愛する革命家。私も大好き。」


 エリーネだけじゃなくこの国の民衆はジリアンという少女に魅了されていた。人々は彼女を『英国のジャンヌ・ダルク』と呼び尊敬の目を寄せている。彼女がこのニューオルレアンを訪れ船を下りた瞬間大勢の歓声が港に響いた。それはまるで救世主の降臨のようだった。


「今日このメルクリウスの街でジリアンの演説があるの。私も行っていいよね?」


「え・・・・・・!?・・・・・・まあいいけど気を付けてね?」


「分かった。ああ~楽しみ~。」


 エリーネは新しいぬいぐるみを買う前の女の子みたいに張り切り出した。ケースを除きパンの状態を確かめるとレジの前に行き次の来客を待った。母親はそんな我が子を見て優しく微笑む。


 家族と昼食を済ませエリーネは自分の部屋へ戻った。ベーカリーユニフォームを床に脱ぎ捨て私服に着替える。長髪の手入れも終え帽子を被りこれからのイベントに出かける準備をする。持っていく物は何もなかった。


 上機嫌に歌を歌いながらベッドの横のカーテンを開け路地の様子を上から眺める。

さっきよりも大勢の人々が同じ方向に向かっているのが見えた。希望がそこにあるといった表情、どうやら考えている事は皆同じのようだった。エリーネも急いで部屋から出て階段を降りる。


「行ってきます!」


 エリーネは母に店番を任せパン屋を飛び出す。


「行ってらっしゃい!演説が終わったら寄り道しないで帰ってくるのよ!?」


 親なら誰でも言いそうな在り来たりな言葉を聞き流し人ごみの中をかき分けていった。

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