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「……どうしたんですか? 猛さん」

 カチャリ、と目の前にコーヒーが置かれる。一口飲んでみると、苦みと酸味は抑えられ、透明な旨味が仄かな甘みで彩られている、という印象だった。そして花火のように鮮明な梔子の香りの炸裂。

「――美味しい。すごく美味しいです」

「気に入ってくれたかい。知り合いからもらった豆なんだけど、いいだろう」

 猛さんは満足げに微笑むと、

「俺はね、最初楓ちゃんを雇うのは反対だったんだ」

「……はい。なんとなくわかってました」

 猛さんが驚いたような表情をする。だが、それはすぐに懺悔する人のものに変わった。

「ここでの仕事自体は、俺と雪子で十分こなせる。でも、やっぱり寂しかったんだろうな。

楓ちゃんと働き出してから、雪子は変わったよ。すごく楽しそうだ」

 猛さんの声には言葉にして語ることができないものが無数に含まれているように思われた。だから僕も、それらを暴くことはしないと決意した。

「……雪子さんはどうして、猛さんを説得してまで、僕がここで働けるようにしてくれたんでしょうか?」

「心配だからって言ってたよ」

「それだけ、ですか?」

「うん。本当にそれだけだ。雪子は昔からそうでね。心配だからってだけで困ってる人にお節介を焼いて、それで自分が痛い目に遭うことも多いのに、すぐまたお節介を焼きに行くんだ――だから俺は雪子と結婚したんだよ。遠くで見てたんじゃ危なっかしくて見てられないからさ」

 そう言うと猛さんは恥ずかしげに鼻を人差し指でこすった。

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