新しい朝が来た、希望の朝……じゃないッ!⑤


 開いた口が塞がらないとはこのことを言うんだろうな……。


 なんなんだ、その全部吹っ切れましたと言わんばかりの満面の笑みはよ。そのくせワタシを射抜いてくる眼光が強すぎて怖いわ。目にLEDでも仕込んでの?


 恐ろしすぎて、このままの流れで「それじゃあ殺すね」とか言われたら、納得はしないまでも諦めるくらいはしてしまいそうだ。


「それじゃあ、私が捕まえたらファッションショーね」


 なるほど、精神的な方でりにくるのね。だが、その手に乗らない!


「断固拒否しますッ! おかしいでしょ!? そもそもワタシは追い駆けっこをやるなんて了承してないですよ。それなのに罰ゲームまで決めるなんて……慈悲はないのか!?」


「私はいつだってイディちゃんのことを考えてるよ!」


 違うんだけどありがとよッ!


 でも、だからって追い駆けっこなんてしないからな。だって始めたら最後、ワタシが悲惨な目にあるのが決定してるじゃないか。


 嫌ですよワタシは、前のときに見たいに糸で縛られて吊るされるなんて!


「無理ったら無理ですぅ! 地上でリィルに追い駆けられたときだって逃げるのに必死で、どう体を動かしたかなんて覚えてないんですから!」


「なら覚えるまで追い駆け続ける必要がありますね」


 頭の上から聞こえてきたすげぇ平坦な声に、油の切れた機械人形みたいな動きで振り返ってしまった。


 えぇっと……ゼタさん? ワタシ、何か貴女を怒らせるようなことしました? なんか今までになく冷たい気がするんですが……もしかしなくても、怒ってらっしゃる?


 これはどういうことだ。あのいつでも格好つけて、周りの人に優しさと微笑ましさを振りまくゼタさんが、まるで戦場に赴くみたいに一切の遊びを捨てた表情で張り詰めてる。


 彼女のこんな顔、それこそワタシのことでリィルと対立したとき以来見てないぞ。


「あのぉ……ゼタさん? どうしてそんなにマジになってらっしゃるんですかね?」


「……マジにもなります。私、すごぉく憤ってるんですからね!」


「をぉう!?」


 いったいどうしたっていうのか、ゼタさんが鼻息を荒くしながら顔を寄せてきた。


 ワタシ、山羊の美醜はあまり詳しくないんだけど、そんなワタシでも綺麗な顔立ちしてるよなって思える顔が真剣な眼差しで覗き込んでくるのには、思わずドキッとしちゃいますね。


 この気持ち、山羊に頭のご立派様な角を突きつけられたことのある人なら共感してくれると思うんだよね、ははっ……怖わぁ。


「いいですか、イディちゃん。貴女の出自に関してはとりあえず置いておきます。それを置いておいたとしても、貴女の現状が非常に危ういことをしっかり理解してください!」


 いや、まぁ。確かに働きもせず、毎日をダラダラと過ごしてリィルの世話になってるワタシが危ういか危うくないかで言ったら、危うさの塊であるのは明らかですけどね。


 でも、それは今に始まったことじゃあないというか、今に話すことじゃあないというか。


 なんだか話が見えてこないんですが?


「今のイディちゃんは、歩くことすらままならない状態で野山に放り出されているようなものなんです。普通なら、小さい頃に親から教わる体の使い方や自分の種族の特性、それを知らないのがどれだけ恐ろしいか……イディちゃんには、あんな思いはしてほしくないんです」


「ゼタさん……」


 ゼタさんの瞳の奥を恐怖や痛みといった暗い色がよぎったのが見えた。


「私は、母さんから十分に教わることができませんでした。生活するだけで精一杯で、教育をしている暇なんてなかった。他に教えてくれる大人もいませんでしたし……」


 きっと、ゼタさんは村を出た後、オールグに辿り着くまでに大変な思いをしたんだろう。


 それこそ、命に関わるようなことも含めて。


 山羊人パーンヌスだって身体能力の高い獣人族の一種だ。教わってさえいれば……そう歯噛みしたことも一度や二度じゃないんだろう。


 自分の体を思うように動かせない、その恐ろしさを骨身に染みるまで経験しているゼタさんだからこそ、今のワタシの状態が一層危うく映るんだろうな。


「イディちゃん……オールグの街は好きですか?」


「えっ、急になんですか? そんな改まって口にするのはちょっと……恥ずかしというか」


「いいから答えてください」


 抱きかかえられたまま、あまりにも真剣な表情を向けられてしまって、恥かしさからはぐらかそうとしたけど、ゼタさんはそれを許してくれなかった。


 きっと、こういうことをオロアちゃんにもしたんだろうな。下手したらプロポーズですよ、これは。わきまえてもらわないと。


 まぁ、なんかうやむやにはできそうにないし、答えるしかないか。


「え、えっと、あの……はい。それはもちろん……好きです、けど」


 ……をぉお。思ったより恥ずかしいぞ、これ。


 別に面と向かって、人相手に言ってる訳でもないのに、「好き」って言葉を口にするだけで、こんなにも羞恥ゲージが溜まるものだったとは……。


 くそぉ。絶対、顔が赤くなってるな、これは。


 腕の中で一人悶えているワタシを見つめるゼタさんは、その答えに心底ホッとしたように優しげな笑みを浮かべた。でも、その笑みはすぐにわずかな悲しみを滲ませた。


「そう言ってもらえるのは、私としても凄く嬉しいです。でも、この世はオールグみたいに優しい場所ばかりじゃないんですよ」


 たった一つの染みが、じわりと広がっていくように、ゼタさんの苦しみがワタシにまで滲んでくる。逃げられるなら逃げてしまいたかったに違いない。でも、ゼタさんの境遇がそれを許さなかった。


 何があったかなんてゼタさんが口にすることはないだろうし、ワタシも聞きだそうなんて思わない。というか、ワタシが訊いていいような話じゃないだろう。


 それに、そんなことを聞かなくても、彼女の話す一語一音から十二分に重みが感じられる。


 それだけで、ワタシがマジになるには十分だろう。


「私からのお願いです。しっかり訓練を受けてください。もし、イディちゃんがこの街を離れることになっても大丈夫なように。何かあっても、逃げ出すことぐらいはできるようになってください。

 どんな状況になっても、絶対に無駄にはなりませんから……お願いします」


「……はぁ。分かりました。分かりましたよッ! 真剣に訓練に取り組めばいいんですよね。やってやりますよ、ちくしょう!

 でも、真剣にやっても今までと何かが変わるなんて期待しないでくださいよ!? こちとら本当に死にそうなくらい怖いんですから!」


 やけくそになって吐き出したワタシの言葉に、ゼタさんはクスッと笑みを零して頷いた。そこに悲しみが滲んでないだけで、ワタシが魂を削る理由になるんだから美人ってのはお得ですよね、まったく。


「ええ、心得てます。しかし、その恐怖心は何も枷ではありません。自分にとっての危機をきちんと怖いと思えるのは当たり前の防衛機能です。

 ようは、恐怖に飲まれなければいいのです。恐怖に飲まれず、体を動かせるようにすれば、恐怖心は優秀なレーダーとなりますから」


「そうなるまでに、いったいどれだけの試練を乗り越えなければいけないのやら」


「大丈夫ですよ。イディちゃんの場合、すでに体はその使い方を知っています。今は心が追いつかずに邪魔をしてしまっていますけど、心が硬直しなくなれば体の固まることもなくなります。そうなれば、逃げるのも隠れるのも自由です」


 分かってるんだけどね。言うは易しってやつなんだよなぁ。


 まっ、やるしかないみたいだし、正直な話をすれば自由自在に走り回るっていうのに憧れがないわけじゃないんだ。パルクールって格好いいよね。


 それに、この間から、成り行きとはいってもお姉ちゃんになってしまったしね。


 妹に心配されてちゃ、示しがつかないってもんですよ。


「よしッ! ワタシは恐怖に勝つぞ! そして、どんな状況からでも一目散に逃げられるようになってやる!」


 ――ワタシの戦いはこれからだッ!

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