全部水に流せたらいいね⑤


 脳の処理が追いつかなくて中途半端に口を開けて呆けるワタシに、リィルはクスクスと喉を鳴らしながら笑って、さらにグッと顔を寄せてきた。


「だって二十九歳ってことは私より年上ってことでしょ? そうなると今までみたいにイディちゃんって呼ぶより、お姉ちゃんの方がいいと思うんだ~」


 ……何を言ってるんですかね、この森人族エルフは。


 いつもは見上げてる顔が、下から猫なでな甘い声を出してすり寄ってくるのに、思わず眉間にしわを寄せてしてしまった。


 なんだろう、目の前に形容しがたいものが存在してる。


 貴女、ワタシの強制幼児化を目論んでたでしょ。それが急になんなんですか?


 甘やかすのも甘やかされるのも、どっちもなんて欲張りが通るはずがないでしょ、わきまえて!


 そもそも、そんなことをしたらおロリ的にレギュレーション違反でしょう。そういった界隈ぬまに住んでる人たちから怒られますよ。


 でもそんなことを言ったら、バブみは男だけの物じゃないって、別の界隈ぬまから這い上がってきた人たちに襲われそう……どっちに行こうと底なしとは、闇も業も深いな。


 というか、ワタシに誰かを甘えさせられるだけの器量があるなんて思ってるなら、その期待は大きすぎて入らないから元いた場所に返してきなさい。お世話できないでしょ?


 ――ワタシの世話があるからなッ!


(……いや、冗談抜きで止めてくださいね?)


「ねっ、ゼタもそう思わない?」


 待て待て、ゼタさんまで巻き込まないでください。


 そもそも、ゼタさんはゴリゴリの姉派の人ですよ? そんな人がワタシみたいなチンチクリンをお姉ちゃんとして認めるはずがないでしょうに、まったく。


「私は、その、どっちでもいいです、けど……」


 思いのほかOKをほのめかす返答ぉ!?


 ちょっとゼタさん。ちょうどいい温度の風呂に入って体がぽかぽかで、頭までぽやぽやしてるとこで酷なことを言うようですが、冷静になって考えてください。


 ……ワタシですよ?


 中身も外身も姉力が不足しているのなんて見るまでもなく分かるでしょ。


 そもそもワタシは資格試験に通ってないから無理ですよ。いやぁ、残念だなぁ。無免許じゃあお姉ちゃんは名乗れないって、法律でそう決まってるからなぁ。


 まぁ仮に免許持ってたとしても、ワタシ幼女だから。宇宙規模で保護観察が義務づけられてる天然記念物ですから。そんな希少な存在に、姉なんていう重荷を背負わせようとするだなんて……人としてどうかと思いますよ!


 だからそんな、ふにゃっとふやけた笑みを向けないでください。


「イディちゃんがお姉ちゃんかぁ……。なら、私は末っ子だから今までの二倍甘えられるよね。アリかナシかで言えばアリ……め゛ぇへへ、いいかもぉ……ヒック」


「ものは試しって言うでしょ! ねっ、今日だけ、今から寝るまでの間だけだからぁ」


 ダメだ。二人共、頭が茹っちまってる。絶対にまともな思考できてないよ、これ。


 二人が左右から迫ってきて胸を押しつけてくる。


 世の男性諸君が見たら、間違いなく血涙を噴出させながら「代われよぉ!」って叫ぶんだろうけど……それ、ワタシのセリフだから。


 いくら、美女二人とはいえ、こんな顔を赤らめながら上半身がぐわんぐわん揺らして、普通こんなになるの酔っ払いくらいですよ?


 というか、マジで二人の様子がおかしいような……気のせい?


「なら決定ね。今日はイディちゃんがお姉ちゃん!」


「待って待って、ワタシいいなんて一言も言ってませんけど!? 仮に了承が聞こえたとしたら、それは幻聴だから。もしくはワタシの代わりに了承した奴がいる! まずはそいつを絞り上げるのに一旦風呂から上がって」


「お姉ちゃ~ん!」


「をっぷぅ!?」


 ちょっとゼタさん、急に抱きついてこないでください!


 もう、ちょっとお湯が口に入って……?


「んん? このまろやかなでありながら確かなコクを感じさせる果実の風味と、鼻に抜けていく独特な香気。これは……まぎれもなく酒ぇ!」


 元の世界じゃあ嗅いだことのない匂いだけど、これは間違いなく果実酒のそれ。フルーティーな香りとアルコールの香りが混ざって、湯気と一緒に浴槽から立ち上がってきている。


 シャンプーとか樹木の香りとか、いろんな香りが混ざっているせいか、今の今まで気づけなかった。


 というか、これだけいろんな匂いが混ざってるのに、不快になるどころか全部の香りが絶妙なバランスで混ざり合って、調和のある高貴な香気を作り上げるとか……さすがは会員限定の高級店、細部にまでこだわりが詰まってますねぇ。


 ……別にダジャレを言った訳じゃないから、たまたまだから。


 っていうか、その前になんで酒の匂いが充満してるんだよ!?


 誰だ、風呂場で酒を注文するなんて……こんなの、許せねぇよッ!


 ――粋なことしやがってよぉ!


 あっ、ヤバい。周りが酒気だらけって認識したら、ワタシも酔いが回ってきた気がする。


「んー! ずるいよ、ゼタぁ。私も~、ぎゅ~!」


「待って、二人共! このお湯、お酒がをふぅ!?」


 ああそんな、リィルまでやられたッ!?


 確実にお風呂で体が温まっただけじゃない、アルコールが入ったせいで赤くなった顔をしたリィルが、緩んだ笑みを浮かべながら抱きついてきた。


 両サイドから抱き枕みたいに抱えられて、これじゃあ身動きが取れない!


 どうする、時間が経ったら経った分だけ状況が悪化するのは分かり切ってる。ワタシの幼女ボディがどれだけ酒耐性があるかは分からないけど、体が小さいから容量だって小さいはずだ。


 そもそも、この世界の基準がどうなってるのかは知らないけど、こんな幼女を文字通り酒漬けにするなんて……何を期待してるんですかねッ!?


 無抵抗の酔っ払いにしていいのはお世話だけなんだから!


 でも、どれだけ焦っても、ワタシにできることなんてない訳で、こっちを座った目で見つめてくるゼタさんからは恐怖しか感じないですよ。


「な、なんですかね? ゼタさん」


「むぅ~……お姉ちゃん」


「いやいや、ワタシは認めてないでお姉ちゃん呼びは諦めてもらえと」


「お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん」


 怖い怖い、なんで連呼してるんですか?


 どんなに言葉を重ねても、ワタシがお姉ちゃんになることは、


「お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん」


「あっ、はい。分かりました、お姉ちゃんです。だから本能に刷り込んでくるような連呼を止めてください。

 なんか精神を侵食されていくような恐怖が、って、痛い痛い! だからって顔を擦り込んでこないでッ! 角! 角がワタシをゴリゴリって削ってますから!

 ちょっと、ホント止め、ゼタさぁん!?」


 いや、まぁ別に騒ぐほど痛い訳じゃあないんだけど、なんでこういう咄嗟の時って大げさに言っちゃうんですかね?


 いや痛くはないけど、怖くはあるんですよ? 硬い角の根元をぐりぐり押しつけられて、ざらざらした質感の角が目の前を掠めていくんだから。


 だから、今すぐその頭をぐりぐりするのを止めさなさい、お姉ちゃん泣くで?


「あ~、私も~。イディお姉ちゃ~ん!」


「ああ、もう! 収拾がつかねぇよぉ!」


 今のやり取りのどこに対抗心を燃やす要素があったんですかねぇ!?


 リィルまで自分の頬っぺたをワタシの頬っぺたにくっつけて、緩み切った顔を擦りつけてくる。君たちはワタシの顔に圧をかけてどうしようって言うんですか?


 こんなことしたって、ワタシは喜ばないよ! ……喜べないんだよぉ!


 なんで『俺』の時に、このイベントがなかったんだ。タイムスケジュールおかしくない?


 今さらこんなことされても、ワタシにはもう、この状況を喜べる心の息子がいないっていうのにさぁ!


 なんで、今になって起こるんだよぉ。遅いよ、手遅れなんだよぉ!


 こんな、どうしようもなくなってから目の前に差しだしてくるなんて……酷いよぉ、あんまりだよぉ。


 こんなの人間のすることじゃねぇ……神様だからって許されるなんて思うなよぉ?


 ――わきまえてぇ!


「うぐぅっ、ぐす」


 ああ、ダメだ。本格的に酔いが回ってきた。


 泣きたくて泣きたくて仕方ねぇよ、ワタシはぁ!


「わをぉーん! わうわう!」


 涙が止まらねぇ。どうしてなんだ……酔っぱらったからだ!


「あれぇ? イディお姉ちゃん、泣いてるぅ……んっふふ、あはは! 可愛いぃ!」


「わをぉ~ん!」


「お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん」


 うぅカオスだよぉ。こうなったら、カオスに飲み込まれる前に飲み込んでやるぅ。すでに溺れてるから、溺れる心配もないし、後は沈んでいくだけだからなぁ!


 後悔したって遅いぞ。ワタシは今! 解き放たれる!




「――お客様! ご無事でしょうか!?」

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