78 現実(リアル)からの飛翔


(いや、誰が母さんかッ!?)


 そこまで人間捨てた覚えはないぞ、落ち着けワタシ。


 たとえ身体は犬だとしても精神は人間で、心は飴細工なうえに砕け散っているから、一つとして戦場を越えるまでもなく惨敗して腹を見せる準備はできてるんだぜ?


 上を向いても下を向いても謝罪ができる。そんな自分を、好きになってあげたいんだ。


 ――だから大丈夫だよワタシ。ワタシもこれから頑張っていくから……。


 オーケー、落ち着いた。これからワタシはより多くの人を救うために世界と契約をして終わりなき荒野に旅立つんだと思ったけど、既に自称神様と契約して異世界に旅立った後だから色々と手遅れだった。


 自分としては人を救う前に自分を救ってあげたいんだけど、それも今の状況は許してくれそうにないから諦めるしかないって知ってるよチクショウ!


 まぁね、犬ですから、人とは比べようもないですよ。


 なんにしても、この匂いはペスさんのものであって母のものじゃない。どんなに心安らいで無防備に全てを曝けだしたくなっても、ワタシの心の故郷は貴女じゃあないんです。


 分かってるさ。同じ四つ足でも、自然体で直立するペスさんと、力強く屈折するワタシを同列に語るなんておこがましいから、今日もワタシは正気だった!


 心の正気を取り戻したところで、とりあえずリィルの方へ振り返り、現状の報告しておく。


「ペスさんの匂いが分かりました!」


 ワタシの言葉にリィルの顔に、奥からじんわり滲んでくるように笑顔が広がる。


 状況を打破するための手がかりを掴んだ探偵のごとき会心の笑みには、ワタシにも相棒 (の犬)として自覚まで目覚めてくる力強さがあったから、この事件はもう解決したも同然ですね!


 ――勝ったな。散歩行ってくる!


「やった! よっ~し、よしよしよし! いい子だよぉ、イディちゃん。次は、すぐにそれを追いかけて!」


「分かった!」


 颯爽さっそうと逃げおうせようとしていたワタシの頭とあご下に、リィルの手が滑り込んでくるのには抗いようがなかった。


 これ以上、巻き込まれる前に安全を確保しようとしていたのに、突如として襲いかかってきたダブルナデナデに、何かを考える余地もなく口が調子こいて勝手に返事をしていた。


 でも、仕方ないんだ。


 だってどっちかでも耐えきれない幸福感に襲われるのに、どっちもなんて、そら尻尾も揺れるってもんですよ。


 ――でも大丈夫!


 だって、これから行くのは散歩。間違いなく散歩。


 そうとも、垂直の壁に張りつくようなクライミングだけじゃなく、一つ足を踏み外せばフリーフォールまで楽しめちゃうような、ご機嫌な散歩コースだよ! 


 ――やったね、ワタシ! 待ちきれなくて尻尾が引き千切れそうだよ!


 いやいや待て待て、まだオロアちゃんがアーセムに向かったとは限らないだろう。もしかしたら、急に甘いものが食べたくなって、糸玉を買いに行っているという可能性も残されているかもしれないだろう。


 だから、この小さな希望おもいを捨てずに、この胸に秘めておこう……。そうすればきっと、いつの日か、見つけるべき誰かが、見つけてくれるから。


 そう思えば、ほら。こうやってより深く匂いに集中するために暗く閉じた目蓋の裏にも、太陽の温もりが沁み込んでくるみたいに光が見えて……。


 匂いをたどった先で、自由に風が駆け抜ける外へ出てみれば、視界の先、淡く滲んで見えるのは――、アーセムの雄大な立ち姿な訳ですよ!


(なぜ人はその壁が高い程、挑もうとするんだろう? あの見下ろしてくる巨体の威圧感を前にして、それでもなお笑みを浮かべて一歩を踏みだす。そんな人たちは口をそろえて言うんだろうな。――そこに山があるからさ、って)


 そもそも山じゃねぇから! 木だから! 木登りに興奮しちゃうとか小学生までに卒業しとけよ! 別に空師の皆さんをディスってる訳じゃないんだからね! 勘違いしないでよね!


(さぁ! ツンはワタシが引き受けたッ! 後は現実リアルさん! 君がデレをすれば、全ては上手くいく! 早くしろッ、時間がないぞッ!)


「やっぱり、アーセムに向かったんだね……。イディちゃん、私たちも向かうよ!」


 しかし必死の訴えもむなしく、リィルの手がワタシの腰に回り、次の瞬間にはその挙動を悟らせることもなく、ワタシたちは固く絆という糸で結ばれていた。


現実おまえは、いつだってそうだ……。肝心な時に一歩を踏みだす勇気がない。だから求められるここぞっていう瞬間に、ためらって足踏みをして、チャンスという幸運の女神の手を掴み損ねるんだ。

 ……お前には失望したよ。いや、期待したワタシが馬鹿だったんだ。

 じゃあな、そのしけた面を見ることも、もう二度とねぇだろうよ。……それでも、もし、もし次に会うことがあるなら、もう少し、優しくなっとくんだな……)


「飛ばすよッ! しっかり捕まってて! イディちゃんは道案内に専念してくれればいいから。行き先は舌を噛まないように、指差しで指示よろしくッ!」


(ワタシは一足先に逝ってるからよ。ゆっくりでいいんだ。小さいことで、いいんだ。出会う奴と一人ひとり、しっかり向き合って、ほんの少し優しくするだけで、世界は、光に満ちて……。なぁ、見えるだろ? 現実リアル……)


 涙に濡れたワタシの顔がよぉ! まぁ、当のワタシは視界が滲んで何も見えないんだけどな。


 でもいいんだ。これを機に、現実リアルさんが少しでも優しさを手にできるなら、ワタシは我慢できる。……だからなるべく急いで慈しみを身につけてください、お願いします。


「少しショートカットしていくよッ!」


「人生回り道も必要だとおもぉゔんですけどぉおおッ!」


 ――飛ばすって、マジで自分を射出するってことだったんですね。


 木やら壁に針を突き立て、そこにつながった糸の伸縮性を最大限に利用して、ワタシたちは大空を駆け抜ける。


 どこぞの地獄からキタ男・スパイダーマッのように、大空に向かって飛び立ったリィルに引っ張られ、ワタシは青色の背景に涙の軌跡を残していった。


 世界がどんなに美しく晴れ渡ったとしても、その陰で、悲しみに暮れる人がいる。いや、むしろこの人々の目を惹きつけて止まない美しい青が、悲しみを覆い隠してしまっている。


 どうかそのことを、わずかでいい、頭の片隅に、覚えておいて欲しいんだ。


(つまりさ――、)


 ワタシのことも気づかってよお願いだから!

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