75 これが大人の対応ってヤツですよ……
しかしまぁ、こんな大仰に叫んでみせたところで、咄嗟にできることなんて、シュシュルカさんの腰に縋りつくぐらいのことしかない訳で。
だけど、こんな肝っ玉も身体も、器も口も、何もかも小さいワタシなんかが取りついたぐらいで、日頃から子供たちの世話している、元一流の空師を止めるなんてできる筈もない。
だから彼女を止めたのは、力とか思いとか、そんな夢見心地で希望に溢れたものじゃなくて、数なんていう、どこまでも現実的なものだった。
「シュシュルカ、抑えてください」
「駄目だよ。それじゃあ、子供たちを守れない」
リィルとゼタさんが、いつの間にかシュシュルカさんを囲うように移動していて、肩やら膝を手で押さえていた。今も闇の気配をダダ漏らしている彼女に、堪えるようにと、静かだけど力のこもった声で囁く。
ただそれだけのことなんだけど、もうワタシだけじゃなかったっていうだけで、夢なんて見るまでもなく希望が溢れてくるような気がした。
――まぁ、希望だけで世界が変わったためしなんかないけどね。
それはそれとして、一時とはいえシュシュルカさんの
なんといっても、これ以上ワタシに何かを期待しているなら、世界はまずその明るすぎて幸せそうで頭ん中お花畑な展望でワタシの未来も照らしてからもの申してください。
なんせワタシときたら、直接シュシュルカさんに触れている分、さっきまでよりも彼女から漏れてくる殺気らしき何かをビンビンに感じちゃって、ワタシの股間からも希望と一緒に何かしらが漏れてきそうな状況ですから。
「もう分かんない、分かんないよぉ! こんな、こんなのどうすればいいんスかぁ……。ゔぅうあ゛ぁあ」
しかし実際には、漏れ出したのはワタシの粗相ではなく、シュシュルカさんの嘆きだった。
もうどうすればいいのか、何もかも分からなくなって、頭の中に現実という無慈悲な棒を突っ込まれて、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられてしまったみたいに、シュシュルカさんは頭を抱えてうずくまった。
――人ってどうしようもなくなった時、泣くことしかできなくなるんだな。
その痛みは子供の時とは比較にならない程、辛くて苦しくて、自分にできることが増えたら増えた分だけ、できないことが大きくはっきりと見えてしまうんだ。
あれもできる、これもできる、なのにどうしてこれだけが……。
できることの多さと大きさは、できないことへの無力感と比例して、あまりにも容赦なく叩きのめしてくる。
シュシュルカさんは「分からない、分からない」と繰り返して涙を零し、もう立ち上がる気力すら涸れ果ててしまったみたいだった。
「シュシュルカ……」
悲痛に暮れるその姿に、ゼタさんもそれ以上なんと声をかければいいのか分からないといった様子だった。言葉が形になる前に崩れてしまい、その残骸がお腹の底に溜まっていっているような、何か一言を口にしようとするたびに重なる息苦しさに、歯を噛み締めて耐えているみたいだった。
もちろん、ワタシにだってこれ以上に何かできることなんて思いつかなくて、シュシュルカさんが座り込んでしまった時に、一緒になって地面に膝をついた体制のまま、彼女の涙に濡れる横顔を眺めているしかなかった。
シュシュルカさんの涙が部屋中を満たしたみたいに、悲しみの水圧が何もかもを圧し潰してしまって、水底に沈んでしまったような息苦しさの中で誰もが息もできずに押し黙っている。
その原因を運んできたアーセリアさんも、毅然とした表情の中に居た堪れなさと遣る瀬無さを滲ませているような気がした。
「……アーセリア様」
このまま本物の深海のように、音や光すら届かない暗闇に深く呑み込まれてしまうと、誰もが諦観が漂う空気の中に沈みこもうとしていた中、リィルの声が水面を優しく透過する月光のように、重苦しさの中に差し込んできた。
「巫子を上げるのは、アーセムから、幻獣様からお達しがあってからひと月の内。……そうでしたよね?」
「その通りです。ひと月の間に巫子の選定をし、各種儀式を執り行ったのち、
そういった手順となっています」
リィルの疑問に、アーセリアさんはゆっくりと、丁寧に答えた。
それこそが、幼子に重い使命を背負わす己の最低限の責任であると、言葉の端々からアーセリアという存在を背負う人間としての重みと、個人として、アーセリアではない一人の人間としての痛みが、かすかに漂っている気がした。
静かにアーセリアさんの言葉が終わるのを待っていたリィルは、聞かされた内容を深く噛み締めるように目蓋を閉じてから、答えが見つかったかのように一つ頷いて、口を開いた。
「それはつまり。ひと月の猶予はある。そう考えて、いいんですよね?」
リィルの言葉に、その場にいる全員が目を見張った。
「それは……、確かにその通りです。しかしそれは」
「分かってます。あくまでもこのひと月っていう時間は、その準備のためのもの。おそらくだけど、身辺整理とか、口裏とかそういったことのすり合わせをするために取ってあるものなんだろうけど……。
でも、その間は少なくとも、子供たちが上げられるってことはない、ってことですよね?」
確かに捉えようではそういった風にも解釈できる。でもその期間は、リィル自身が言ったように、あくまでも儀式をつつがなく進行させるためのものだ。
それに、その間に何ができるとも思えない。日数的にひと月といえば、おおよそ三十日。長いように感じるけど、これから何かをしようとするなら圧倒的に時間が足りない。
オールグの人間にこの事実を知らしめて、反対運動のようなことを行うにしても、アーセムに依存しない街のシステムを再構成するにしても、何をやるにしても、間に合う筈がないんだ。
「だから、ひと月の間に、もし、万が一にも私たちが、他の方法を、子供たちを犠牲にしないで済む方法を、見つけることができたなら……。
その時は、一緒に協力してくれるって、約束してくださいますか?」
ここにきて、まさかの逆説得に移行するとは……、やはりリィルは格が違った。
挑むように一歩、距離を詰めるリィルに、アーセリアさんはくっと顎を少し持ち上げて、真正面からその気概を受け止めるように、真摯な瞳を覗かせた。
「……ここで確約はできません。儀式の準備やそれに伴う諸々を止めることも、できません。そもそも、ひと月という短い期間で何かをできるとは、とても思えません。
……でも、もしも、……そんな夢のような話があるのなら。
私も思わず、縋ってしまうかもしれませんね」
まるで、本当に夢見ているように、そっと瞳を閉じたアーセリアさんは、閉じた視界の中に何を見ているか、口元に優しく微笑みを滲ませた。ただそれも、ほんの僅かな時のことで、すぐに先程までの厳粛な顔つきに戻ると、静かに立ち上がった。
「……今日はこの後もこなさなければならない予定が詰まっているのでした。
籠守、シュシュルカ・ニンナナンナ・オールグ。
巫子の選定の結果は、後日、改めて通達することとします。……どのような結果であろうと、受け止める覚悟を。
それでは、イディ様。御先にお暇させていただきます。もしお時間が許すようでしたら、ぜひアーセリアの本邸をお尋ねください。
その時は、此度の分を合わせて、アーセリアの総力をあげて、おもてなしさせていただきます。それでは」
そう言い残して、アーセリアさんは護衛の
「……ふー。先送りにしかなってないけど、どうにか今は乗り切った感じかな?」
「姐さぁん……」
「もう、そんな情けない声出さないの。私もできる限りのことはしてみるから。子供たちがみんな幸せになれるように、いろいろ考えてみよ?」
「うぐぅ、あ゛りがどうごさいまずぅ!」
縋ってくるシュシュルカさんの背中を、リィルの手が優しくなでる。
その手つきは、子供をなだめる時の母親のような、慈しみが形になったみたいに、優しいものだった。
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