56 仲間がいるじゃない!


 沈黙の一拍。


 リィルとシュシュルカさんが見つめ合うこの一瞬、世界は時を投げ捨てたに違いなかった。


 思考をどこかに置いてきてしまったことで灰色に沈んだ瞳と、温かな優しさの下で渦巻く欲望の熱に弧を描いた瞳、永遠に感じられるこの瞬間に、言葉なんていらなかった。


 しかし次の瞬間、呼吸を思い出したかのようにシュシュルカさんの目に光が灯った。


 どこかへ飛んでいた意識が戻ってきたのと同時に、彼女はすぐさま危険から逃れるために腰を引いて後ろへ飛び退ろうとしたようだが、肩に手を置かれた時点で全ては遅きに失していた。


 逃げの一手を敏感に察知したリィルの手が、空間ごと握り潰すかのように彼女の肩を掴む。


 具体的にはワタシたちがその手に向かう集中線をハッキリと見たぐらいの迫力だったけど、指が食い込んでいる訳ではないのとシュシュルカさんの様子から握力がそこまで込められていないことが分かって、むしろ大して力を入れていない手の所作一つでこの場を掌握している圧力は世界すら手中に収めているから、世界の半分で満足できる謙虚さを魔王さんから見習って。


「えっ、えっと……あねさん?」


 せっかく眼に光が戻ったのに、今度は温かさと血の気が失せてしまった顔のシュシュルカさんが、腰が引けたままの体勢で恐る恐る下から覗き込むようにリィルの瞳の内をうかがった。


「……シュシュルカ。私ね……、すごく頑張ってるの」


「は、はあ? え、何が、ッスかね?」


「頑張ってるの……。イディちゃんをナデナデする時。どんな風にすれば喜んでくれるかな、こうすれば蕩けた顔を見せてくれるかな、この撫で方なら思考も理性も溶かし尽くして剥き出しのイディちゃんを見せてくれるかな、って。

 たくさん、たくさん考えて、撫でてるの……」


 リィルの瞳は変わらず熱でドロドロに茹だってマグマもかくやって感じだったから、撫で方を考える前に人としての在り方について考えて。


「それなのに、それなのに……ずるいよぉ!」


「ホント何がッスかぁ!?」


「私だってまだナデなんてされたことないのに! 

 そんな、そんな生まれ持ったちょっとプニプニで気持ちの良い手だがあるだけで、私より先にナデ乞されるなんて。こんな、こんなことって。ひどいすぎるよぉ……」


「えぇぇ……」


 ぽろぽろと大粒の涙を零しながらガチ泣きしだしたリィルに、シュシュルカさんは別の意味で離れたそうにしていた。


 分かるよ、同じ身の危険なのにこっちの方が怖いもんね。大の大人が自分の先を越したっていうだけで、この世の終わりみたいに悲壮感に暮れて……マジで怖いもんね。


 しかしリィルが悲しみに沈んだだけで諦める筈もなく、涙に濡れているのに一向に冷める様子のない熱を雫と一緒に振りまきながら、上半身をグゥッと伸ばしてシュシュルカさんに詰め寄った。


「ねっ! いいでしょ。シュシュルカはすごい再生力持ってるんだから! 手の皮の一枚や二枚や三枚や四枚! 十分もあれば再生できるんだから、私にちょうだいよ!」


「ヤダヤダ、絶対いやッスよ! ちょー痛いヤツじゃないッスかそれぇ!」


「じゃあ二枚で我慢するからぁ!!」


「数の問題じゃないッスからぁ!!」


 リィルの目から流れるでているのは最早怨念の類いに変わっているに違いなかった。透明な筈のそれが今やドス黒く濁っているようにしか見えず、まるでアメーバか何かのように幾筋も跡を残しながら消えることなく頬に張りついている気がする。


 コレがリィルの気迫が見せる幻覚に過ぎないのは全員承知していても、そんなよく分からない物を纏いながら這いずるように身体を登ってくるリィルは恐怖以外の何物でもないも全員承知しているから、シュシュルカさんが声を震わせながらゼタさんに助けを求めるのも至極当然だと全員承知していた。


「ゼ、ゼタ! 助けて下さいッス! 元バディのピンチッスよ!」


 切羽詰まったシュシュルカさんの救護要請に、いつもならすぐに苦笑を零しながらでも止めに入るゼタさんが今回は違った。

 縋ってくる若干濡れた瞳から視線を反らすと、傍目からも分かるぐらい子どもっぽく頬を膨らませた。


「お姉ちゃんにはあれだけニコニコ挨拶しておきながら私には何にもナシで無視する冷たい元バディのシュシュことなんて知らない……」


「なんでこんな時に拗ね癖をだすんスかぁ!?」


 ここにきて最後の頼みの綱が既に切れていたというのは予想外だったようで、シュシュルカさんの悲痛な声が沈んでいった。


 ワタシとしてもゼタさんの反応は予想外だったけど珍しいことに自分に被害が及んでいないので、そのコールタールみたいな沼に手を突っ込んで掬い上げてるのはちょっと手を合わせてお悔やみ申し上げるので忙しいから申し訳ない。


「分かった、分かったッスから! 今すぐ今世紀一丁寧な挨拶をするんで助けて下さい! ああ姐さん採寸しないで! 

 もう本当に誰でもいいんで助けて下さいッスぅ!!!」


 病院という名の世界の中心で愛を叫んでいそうな感じのシュシュルカさんだったが、救いなんてこの世界の神様がアレである以上ある筈がないし、むしろこれが正常な気がするのでワタシたちはとてもいい友人になれる気がする。


(さぁ、貴女もこっち側にきて……)


 新しい友の誕生を祝い、優しさで彼女を包むために両手を広げて待っていたその時、


「――うぅ、あぅ。あうぅう」


 シュシュルカさんの胸元から聞こえてきた、とても小さな、言葉というにはあまりに拙い声に、ワタシたちの動きは完全に止められていた。


 先程まで静かに閉じられていた小さくて丸い瞳がぱっちりと開いて、あまりに無垢な視線でワタシたちを捉えてきていた。


 ――むしろ今までの喧噪で寝ていられるとか剛の者に違いない!


 まさに生まれながらの強者。目覚めた救世主の純真な光を恐れるように、闇堕ちしたリィルは後退って距離をあけながら悔しげに呻いた。


「くぅっ! 赤ちゃんが起きちゃったんじゃ仕方ない、ここは引いてあげる。でも、シュシュルカ。これで私が諦めるなんてと思わないことだよ! 

 チャンスはいくらでもあるんだからぁあ!!!」


 捨て台詞と涙の雫を残して、リィルは凄まじいスピードで走りだすと子どもたちが遊んでいるところに突撃していった。


 子どもたちに混ざってフリスビーを興じ始めたリィルを遠くに見ながら、世界を掌握していた闇を追い払った幼子に、畏怖と敬意を持って戦慄せざるを得なかった。


 ――将来は勇者で決まりですね。


「はぁあああ……。助かったぁ!」


 赤ん坊を胸に抱き寄せて両手でしっかりと包みながら、シュシュルカさんは溜め息と一緒に全身の力を吐き出したみたいにへなへなとその場に座り込んだ。


 汗をかかないはずの彼女の顔に滝のような汗が見えるのは、幻覚というばかりではないのは確かで、この場ではなんとか被害なく済んだようだけど彼女がワタシと同じ立ち位置にいることになったのも確かだったから満足だった。


 涙目で腰を抜かしてしまったシュシュルカさんに、ようやく頬から空気を抜いて苦笑を浮かべたゼタさんが近づいて手を差し伸べた。


 そのあまりに温かな風景にワタシの胸を温かさが満たした。


 ――そうとも。ワタシたちは、独りじゃないんだよ!


 一人じゃ無理なことでも二人ならできる筈だから、これからシュシュルカさんとは仲良くしていこう。絶対に逃がしてなるものか。


「大丈夫ですよ。お姉ちゃんだって本当にシュシュの皮を剥ごうなんてこと……、考えていたとしても実際に行動には移しませんよ」


「万が一そうだとしても怖いもんは怖いんスよ!?」


 ゼタさんに手を引かれてヨロヨロと力なく立ち上がったシュシュルカさんは、片手を突き上げながらジトッとした恨みがましい目を向けた。


 しかしそれも数秒のことで、どこか気恥ずかしげな笑みを浮かべると、頬をカリカリ引っ掻きながら改めてゼタさんと向き合った。


「まぁ、過ぎたことを何時まで言ってても仕方ないッスね……。久しぶりッス、ゼタ」


「ええ、久しぶりです。シュシュルカ」

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