33 夏が来たのではじめました。


「おっ、しえ、子?」


 何もないところで蹴躓いて転びそうになったような間の抜けきったワタシの返答に、ネアさんはもう一度だけ含んだように笑ってから、ゆっくりと頷いた。


「はい。あの子に糸の使い方や空師としての技術を教え込んだ、言わば教師のようなものでしょうか。

 イディさん。貴女とも是非ゆっくりとお話ししてみたいので、リィルとともに家(うち)に尋ねて来てくださいね、心より歓迎させて頂きますわ。

 今日は時間もないので、続きはその時に」


 黒々とした眼球にワタシが映し出されて、なんだか底の底まで見透かされているようで落ち着かなくて、キスでもされるんじゃないかってぐらいに近づけられた顔から逃れるように視線を泳がせる。


 というよりも、こんな美人さんの顔が近くにあるっていうだけで口の端どころか耳から尻尾まで引きつりそうなぐらいピクピクしてしまって、いつ何時ひきつけを起こしてもいいようにそなえも万全にビクビクしてしまうのは当然ことなので、いっそのことリィルみたいに行き過ぎてくれた方が楽なんだろうなと思ったけど、あれがこれ以上増えたらワタシは死ぬ。


 主に、知的生命体として。


 もう手遅れな気もするけど、ワタシは諦めない。

 どんなに地べたに這いずり回ってお腹を見せて尻尾を振るようになっても、甘味を前にして「待て」の指示を従順に守りながら尻尾を振るようになったとしても、ワタシが諦めない限り尻尾は振っても希望は消えないんだ。


 元の世界でコツコツと小中高で溜めた気がする知性を大学で酒に溶かし、どうにかこうにか救い出した僅かなそれを社会は情け容赦ない冷ややかさでゴリゴリ削ってくれて、残ったほんの一握り。


 しかしそれも、確かに握りしめていた筈なんだけどちょっと見当たらなくて、こちらの世界に来た瞬間に消し飛んだか、それとも今のワタシの手はそれすら握れないくらい小さくなってしまったのか……。

 というより、このミニマムな手で握れるとしたら元の知性の小ささにワタシは泣き崩れるしかないので、どこかに行ってもらった方がみんな幸せ。間違いない。


 ――でも、いつかまたきっと会えるって信じてる。


 詰まるところ今のワタシに知性があるかどうか怪しいという結論に至ってしまって、もう震えが止まらない。

 もはや笑う以外の選択肢がある筈もなく、ネアさんのたおやかな微笑みと向かい合ってガタガタの笑みを浮かべた。


 そんなワタシの様子を前にネアさんの瞳に一瞬だけよぎった、憐れむような申し訳なさそうな光が、縦横無尽にワタシの心を傷つけていく。

 そんな、コンボ決めるみたいに的確に隙をついてこなくてもいいじゃない。


(心ってね、傷つくと血の替わり涙が出るんですよ。知ってました?)


 じわじわと目蓋に溜まっていく雫に、ネアさんは居た堪れなくなったのか、軽やかに背を向けてガロンさんの隣に歩いていってしまった。


 僅かにも遠ざかってくれた背中にホッとしながらも、なんだか自分の中の使ってはいけない部分を惜しげもなく振りかざしたような気がした。

 きっとそれは使ったら使った分だけ対となる何かしらが減って、永久に回復しない、今回の場合は世間でいうところの『男らしさ』がワタシの中で危篤にされそうだったけど、たぶんご臨終まではいっていないくらいの感じだ。


 でも、こっちに来てからは幼女だからね、ノーカウントだね。もとの『俺』には傷一つついちゃいない。


 心がいつも一つだなんて誰も証明していないからワタシは今日も生きてます。


 知性も心もボロボロなワタシは涙も震えもそのままに、ちょっと微笑んで視線を上に向けてみたけど空が青いだけだった。悲しみが止まらない。


(って、妻ぁ!?)


 悲しみは吹き飛んでいった。


 今になってネアさんの言葉に脳の理解が追いついて、その愚鈍さにワタシの知性の稚拙さが証明されそうになったけど、瀕死の状態だから正確ではないのは明らかだった。


 混乱に渦巻く頭のまま慌てて二人の方へ視線を送ってみると、ネアさんがガロンさんの半歩下がったところに陣取るのと同時に、ガロンさんが満面の笑みを浮かべて意味ありげな視線で彼女を見上げ、それに対して彼女も何も言わずに微笑んで小さく頷いて返して、なんと言うか目と目で語り合っちゃって阿吽の呼吸の種族を超えてたラブ・イズ・ワールド。


 自分でも何を言っているのか分からないが、この会場のなによりも甘いのは分かった。


 ――コーヒーはブラックでお願いします。


『さて、気温も大分上がってきた今日日だ。菓子ってのはやっぱり一年中食べられるのと同時に季節感もなくっちゃならねぇ。

 新参とはいえ、そこら辺をしっかり考えられている相手さんもなかなかのもんだ。だが、それはおめぇさんだけの武器じゃねえ! 

 これこそ蜜糸堂(うち)が送る、新しい夏の定番だぁ!』


 飲めもしないブラックコーヒーを所望しているワタシの前で、いつの間にか置かれていた新しい銀盆の蓋がひとりでに宙を舞った。


 蓋は美しい放物線を描きながらネアさんの手元に吸い込まれるように集まっていったので、おそらく糸を使っての演出なのだろうけど、ワタシとしては気分的に甘いものはお腹いっぱいだった。


 しかし、開かれた盆から白煙と共に涼やかな空気が溢れてくると、否応なし期待が刺激されて尻尾が乱れるので、知性とか以前に情緒が不安定な気がしてきた。


「これは……」


「さっきのと、おんなじ?」


 そんな不安と期待が入り交じったワタシを余所に、いつの間に糸との戯れを終わらせたのか、素顔を覗かせたリィルと両手が自由になったゼタさんから困惑の声が漏れた。


 白煙の底から現れたそれは、見ただけでは先程の糸雲と同じように思えて、ワタシを含めて三人で頭の上にクエスチョンマークを浮かべて首を傾げた。


『はっはっは。まぁ、まずは食ってみてくれ。溶けちまうとことだからな』


 疑問の笑い飛ばしたガロンさんの勧めに従って、糸雲の巻きついた枝を手に取る。


 枝に触れている指先とか掌から、ひんやりとした冷気が染みてくる。

 それだけで口の中に涎が溢れてきて、これは元の世界で言うところの夏場の瓶ラムネ、それも最近ではもうお目にかかることがなくなって久しい、飲み口まで瓶で作られたそれを掴んだ時の相当する興奮のような気がした。


 こちらを刺殺さんばかりの勢いで日差しを投射してくる夏の太陽の下で、手に取った瞬間にジンと伝わってくる冷たさ。それに口をつけた時の爽快感を想像する時の、心を急かされるような楽しい期待だった。


 ゴクリッ、と喉を鳴らして待ちきれないように三人で揃えることもなく齧りついた。


「お」


『お?』


「おっいしぃ~!!!」


 誰ともなく歓喜の声を上げていた。


 ――なんだこれなんだこれ! なんだこれっ!?


 もう頭がパニックだった。頭以外もパニックだった。


 夢中になって糸雲に齧りつく。


 歯を立てた瞬間は元の糸雲以上に、もっちりとした歯触りが確かにあるのに、口の中に入った瞬間からまるで空気を食べたように、冷気と甘さと香りだけを残して、どこかに消えていく。


 溶けるというよりは、気化でもしているのではと疑いたくなるような、食べ心地だった。


 そもそも、綿あめ的なものが凍ることに驚いた。


 野菜が糖を生産することで、自らが凍らないようにすることで甘みを増すのが有名な話のように、糖分は凍りにくい。


 それに加えて何十、何百という空気の層を抱えている綿あめは天然ではないけど天然の断熱材のような構造になっているから、中まで冷気が浸透していかない。

 細かな泡状のもの、シェービングクリームなんかで全身を包めば極寒の地でも、中の人間は支障なく行動できるのと同じ、家の断熱材でも泡が存在するぐらい空気の層はすごい。


 それが凍っている。


 もう自分の中の常識やらなんやら糸雲と一緒に消えていくようだった。


 雪を食べているのとも全然違う、ましてやかき氷とはかけ離れている。

 口の中に重さもなく入ってきて、心地良い冷気を口から喉から、胃、そこに留まらず全身に広がっていくような快感が、清々しい甘みと香りに包みこまれて極上の幸福になってワタシを包み込んできた。


 ――雲を食べるって、こういう感じなのかもしれない。


 ファンタジー、まさにファンタジー。まごうことなきファンタジーなお菓子だった。


『どうやら気に入ってもらえたみてぇで何よりだ。

 ここまくるのにどれだけの苦労があったか、数えるのも嫌になるくらいの壁があった……。だがまぁ、それをここで話し始めると長くなるし、なにより場違いな上に無粋だ。

 お客に、蜜糸堂(うち)の菓子を食って美味いって言って笑ってもらえりゃ、そこまでのことなんて、まるっと忘れちまえる。

 だから観客のみんなも是非、蜜糸堂(うち)に来てこいつを試してみてくれ。この夏一番の美味しさを保証する! 


 オールグ夏の新定番は――この、「冷やし糸雲」だ!』


 冷やし中華みたいなネーミングセンスだけは残念だった。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る