32 用法容量を守って正しく使いましょう


 スッと右手を上げて合図を送ると、猫人族(ケットシー)の彼女たちが盆を持って退場していく。


 メーアさんは尻尾を巻き込みながらも観客に向かって笑顔で手を振り、舞台袖に消えていった。

 彼女の勇ましく震えている背中に心の中で敬礼を送りたかったのだが、リィルのナデナデが顎の下まで及んでいたのでそれどこではなかった。


 ――くそっ! ワタシは戦友の背を見送ることもできないのおぉぉん。


 達人の域にあるリィルの指使いを前に、舌を出して尻尾を振るしかできないのは仕方ないことで、ワタシの意志が惰弱とかそういうのじゃない。犬だからね、どうしようもないね。


 ハッハッと短く息を吐きながらされるがままになるワタシを覗き込んでくるリィルの瞳が怪しく光り、わきわきとうごめく白く長い指がなんだかとても魅力的に見えてしまう。


 糸雲のついでにワタシも美味しくいただかれてしまう直前だというのに、それがなんだか蠱惑的に思えてしまって、撫でるのをせがむように首を伸ばして顎を上げたのはワタシの意思だけど、これには本能の暗躍があるのは分かりきっていて、それは既に暗躍ではないのだけどナデナデの誘惑の前にはどうでもいいことだった。


「ここ? ここでしょ。ここが好いんでしょ。分かってるんだから、ほらぁほらぁ」


「くぅーん、くぅーん」


「ああ、そんな誘うみたいな鼻声できゅんきゅん鳴いて、これはもう同意とみていいよね! いただきまーっゔぇ」


 押し倒そうと圧し掛かってきたリィルから突然、常識も品性もなげうったような声が吐きだされた。でも捨てたのはだいぶ前のことなので特に問題はない。


 潰れたカエルのような声とともに離れていった手の感触に、ワタシもようやく我に返り、慌てて舌を引っ込めて口を両手で押さえながら、意識も知性もなげうったような自分に震えが止まらなかった。でも捨てたのはだいぶ前のことなので特に問題しかない。


 ――それでも人間性(そこ)は投げうっちゃいかんだろ、ワタシッ!


 最近では異世界転生系若者の人間離れが深刻らしいけど、きっとこういうことではないし、そもそも『俺』は若者でもないので許されない気しかしない。


 とうてい看過できない深刻な犬化に気が遠くなりそうだけど、初めからこんなんだったような記憶もありそうであって、ワタシを追い詰めるのに余念がない現実さんは非情が過ぎる。


 現実の自分を直視させようと執拗に重ねてくるボディブローに打ちひしがれるあまり、垂れてきた耳を引っ張って悶えるワタシの隣で、リィルはいつの間にか首に巻きついていた糸に手を掛けてもがいていた。


「あ゛……くっはぁ! もう! 急に首を括りにくるのはやりすぎなんじゃないですか、ネアさん!」


「私(わたくし)も他人様の目に晒されている中で、幼子を手籠めにしようなどいうのは、やり過ぎのように思うのだけれど。如何?」


 いつの間にかリィルの背後には女性が佇んでおり、頬に手を当てながら柔和そうな顔に困ったような微笑みを浮かべていた。


 先程の猫人族の彼女たちが着ていたメイド服とよく似た服装で、違いと言えばショートパンツではなく裾にフリルのあしらわれたロングスカート、彩色がより深みのある紺色。

 その制服を清楚に着こなしながら、手の掛かる子供の相手にする時のように優しげに目を細めてリィルを見下ろしている。


 しかし服装よりなにより、その特徴的な容姿に目が引きつけられた。


 街中で見かけた馬人族(ケンタウロス)と同じぐらい高い上背、徒人族(ヒューム)と同じような一対の瞳の外に、黒玉のような目が六つで計八つ、艶やかな眼球が顔の正面だけでなく側頭部にまで広がっている。


 肩から伸びる腕の外に、腰骨の上あたりからもう一対、上のよりも長い腕が伸びており、どちらも艶やかな甲殻に覆われていて、指先は鋭い鉤爪状になっている。


 スカートから伸びる足はスラリと長く、全体が柔らかな繊毛に覆われて、三対六本で左右に折りたたまれるように出ていた。


 ――蜘蛛人族(アラクネ)だ。


 街に入ってから遠目で見たりはしたけれど、こんな間近で見たのは初めてで、その良いとこのマダムのような落ち着いた雰囲気とは裏腹に、気圧されるように背筋を正して見上げてしまった。

 しかしこれはその圧倒的な体格差からとかそういうことだけじゃなくて、ワタシたちを見下ろす複数の瞳の奥から有無を言わせない迫力を確かに感じ取ったからで、耳も尻尾も真っ直ぐ上に伸ばさずにはいられないのは獣人だったら誰だってそうするから、ワタシだってそうしたに過ぎない。


 怖いとかそういうんじゃないんですよ、だからその眼光はワタシを巻き込まずにリィルだけに向けていただけると幸いです。


「うぐっ。いや、これは、その。た、確かに、それはそうですけど……」


 リィルが一言口にする度に、笑みを深めるように目がどんどん細まっていき、合わせるようにリィルの声もどんどんか細くなっていった。


 ――何ということでしょう、リィルが押し負けている。


 今の今まで、傍若無人とまでは言わないでも我が道をひた走り、むしろそれがリィルだよね、と周りの人間をアグレッシブに腕力に任せて首を縦に振らせているような彼女が、怯んでいる。


 これはもしかしなくてもチャンスなのは明らかだし、むしろチャンスに変えてみせるしかない。そして、リィルがワタシのことをもう少し人間よりの扱いをしてくれるようにしてくれる。


 そう、これからはワタシがリードを握るんだ!


 ――そのためには情報が必要だから、静かにしていよう。


「はぁ……。まったく、貴女って子は。昔から向こう見ずと言いますか、思い込みが激しいと言いますか。ホント……、おバカねぇ」


「なっ!? そこまで言う、ことはないんじゃないかなぁって、本当に、ほんの少しだけ、ホントにちょっとだけど、思うんだけどなぁ。……ごめんなさい」


 リィルが謝罪以外の言葉を重ねる度に、頬に添えている以外の三本の腕が見せつけるように糸を弄んで、それにチラチラと視線を吸い寄せられる度にリィルは声も態度も萎ませていった。


 最後に小さく零れた謝罪に、ネアさんはもう一度小さく息を吐いてから糸を手放して、悪戯をした子供を叱りつけるように腰に手を当てて、ズイッと上半身を倒してリィルに詰め寄った。


「これ以上この場で時間を使っては、闘技会を滞らせることになってしまいますし、今日はここまでにしておきます」


 その言葉にリィルはあからさまに、ほっとしたと長く息を吐きだして肩から力を抜いたが、それを見計らっていたようにネアさんがさらに詰め寄り、もみあげ付近から頬骨を覆うように存在している、繊毛に覆われた鋏角らしきものをワチャワチャさせた。


「なので、後日改めて呼び立てるので応じること。いいですね?」


「そ、そんなぁ~。横暴だぁ、パワハラだぁ。よくないんだよ、そういう」


「い・い・で・す・ね?」


「……はい」


 反論を試みたリィルだったが、優しさしかないような笑みを浮かべながら、鋏角をいっぱいに剥いかれたところであえなく撃沈した。


 その様子に満足したように一つ頷き、ネアさんがワタシの方へ顔を向けた途端、リィルはネアさんの鋏角を真似るように頬の脇で両手をいっぱいに広げて舌を突き出す、のを確認できるかできないかのタイミングでリィルの顔に糸が張りついた。


 背後で顔を覆った糸に身悶えているリィルなど存在していないかのように、ネアさんはニコニコと満面の笑みを張りつけてワタシの前に立つと、スカートの端を持ち上げて優雅に一礼した。


「私は、ガロンの妻で、ラネアラ・セムロン・ナクラ=オールグと申します。どうぞ、ネアと」


 背後で糸を剥がそうと手をやったら手まで張りついてしまい、のたうってるリィルにゼタさんが慌てて駆け寄って、解放しようとしたら自分の手までくっついてしまい、これ以上ないくらい慌てているのになんだかちょっと嬉しそうな様子でいることなど、気が付いていないなんてありえないのに、ワタシにはそれを指摘できる筈もなくて、頭の心もカオスのまま頭を下げ返した。


「あっ、はい。ワタシはトイディです。イディと呼んでください」


 現状に頭も心も追いついていないワタシを静かに見下ろしくるネアさんに、なんだか座りが悪く感じるのは決して尻尾が股の下に丸まっているからではないし、位置がずれる程震えているからという訳でもないのは分かり切っているので、どうかそんなに見つめないでください。


「え、あぅ。あの。リィルとは、その、お付き合いは長いんですか?」


 自分でもそれを聞いてどうするのか甚だ疑問ではあるけど、何か口にしないともう緊張のあまり言葉じゃないもの出てきそうで、だからこれは緊急避難というやつで、別にワタシが口下手であるとかコミュ障であるとか、そういうことはきっとない。


 そんなワタシの心情を容易く見透かしたであろうネアさんは、ようやくクスリと喉を鳴らして表情を崩し、どこか懐かしむように目を細めた。


「ええ。あの子は私の教え子ですから」

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