20 切れぬ糸


 ――ああ、これだ……。

 

 ぽろぽろと零れ落ちてくる涙は冬の雨みたいに冷え切っていて、頬を流れていった跡に鋭利な刃でスーッと裂かれていくような痛みが走った。


 これはきっと、リィルさんの痛みだ。


 ワタシに馬乗りになったまま嗚咽を漏らして泣きじゃくるリィルさんは、知らない場所に独り取り残された子供のようで、自分の周りの全てが恐ろしいものであるかのように、絶望のただなかに座り込んでいた。


「わ、私ねっ。気にも留めてなかった。ただ遅いだけって、なんなら調子が崩れなくてラッキーって、ずっとアーセムに登っていられるって! 馬ッ、鹿だよね」


 導いてくれる手はなく、道を示してくれる標(しるべ)もない。辺りは真っ暗で灯り一つ見当たらない、傍には誰もいない、何の声も聞こえない。

 泣いてもしょうがないのに泣くことしかできなくて、途方にくれて歩くことも儘ならなくなってしまったんだ。


「慌てて、お医者様に見てもらったけど。身体はいたって健康だって。おそらく血が混ざったのが原因だろうって。悪いところがないんじゃ、治しようがないって!」


 どれだけ声を嗄らして泣き叫んでも、変えようのない現実がギラギラと悍ましい牙を剥いて息も出来ないぐらいに強く、強く縛り上げてくる。


 リィルさんはもう、どうしようもなく打ちのめされてしまったんだ。


「初めて、お父さん、とお母さん、怨んじゃった。

 こんな身体じゃなかったら、私は、苦しまずに済んだのに! 

 お父さんとお母さんが、出会わなければ、私は生まれずに済んだのにっ! 

 お父さんがあんなに優しい顔で、嬉しそうに、お母さんの話を聞かせてこなければ、もっと楽に諦められたのにぃ!」


 濁々と溢れてくる慟哭は、リィルさんが愛おしさを抱えているが故に何もかもを押し流してしまう無慈悲さに満ちていて。

 吐き出された黒く濁った奔流に飲み込まれて、リィルさん自身が暗く冷たい水底に引きずり込まれていくようだった。


 ――きっとアーセリアの人々もお父さんも、温かかったんだ。


 だからこそ諦めきれず、憎むことすら上手にできなくて。生き苦しい日々の中で、毎日、毎日ただ帰ることを夢見るしかなかったんだろう。


 それが夢見ることしかできない幻だとしても、柔らかな日差しの中で微笑む幼き日の自分を追いかけて、手を伸ばさずにはいられなかったんだ。


 いつかまた、あの陽だまりの中へ――。


「……私、どうすればいいのか、分かんなくなっちゃって。やっと、分かったのに。どうしようもないって。私はただ、愛されたかっただけなのに、ずっと一緒にいたかっただけなのに……。

 ゼタを拾ったのだって、そう。夜更けの冷たい路地裏で誰の目に留まることのない、私とおんなじ一人ぼっちのあの子と、仮初でも家族になれれば救われるんじゃないかって。そんな打算があったから……」


 二人が臨んだものは同じだった。そして確かに手に入れたものも存在していて、本当の温もりもそこにあった。

 ただ、それとの向き合い方が違っていただけで。二人はお互いに掛け替えがなかったからこそ、すれ違ってしまった。


 リィルさんはただ自分の腕の中にいて笑い合える家族を、ゼタさんは肩を並べて共に助け合う家族を、それぞれが共にある為に力を尽くそうとした結果なんだ。


「でも、やっぱりゼタも離れて行っちゃった。

 やっぱり仮初じゃあ駄目なのかなって、諦めてた。子供を産めない私じゃ、お父さんみたいに温かくて眩しくて、慈しむような愛は持てないだ、無理なんだって」


 違う! そう叫びたかった。


 リィルさんが育んできたこの街の皆との愛が、間違っているなんてことは絶対にない。でもそれは彼女の望んでいたものとは形が違っていて、それを否定するような言葉を吐くことはワタシにはできなかった。


 だってそれは、彼女自身の否定に繋がってしまう気がしたから。


「……だから、イディちゃんと会った時、すごい嬉しかった」


 暗く沈んでいたリィルさんの瞳の奥にぽぉっと熱が生まれたように見えて、縮こまっていた心臓がドキリと跳ねる。


「初めて見た瞬間からこんなに愛おしいなんて、普通じゃないって分かってた。

 でもそんなこと気にならないぐらい気持ちが溢れてきて、時間を重ねれば重ねる程どんどん大きくなって。ずっと一緒にいたい、傍にいて欲しい、これが最後かもしれない。自分の子供じゃなくても、こんなにも愛せるなら、って」


 小さく灯った熱がリィルさんの中にある色んなものを飲み込んで燃え上がっていく、アーセリアへの郷愁や温かな家庭への羨望、狂おしいまでの思いが焚き木になって真っ赤な火花がリィルさんの瞳の端からチリチリと溢れてくるように見えた。


 ――ああ……、嬉しいなぁ。


 場違いにも程がある。

 でも出会ったばかりの、それもワタシみたいな存在にこれだけの愛を向けてくれるのが嬉しくて、焚き火を囲んだ時のように頬を赤く染める熱が胸の中まで温めてくれるみたいで、緩みそうになる顔を引き締めるのが大変だった。


「……だから、イディちゃんが消えちゃった時、なんか全部が一緒になくなちゃったみたいで、やっぱり私に家族なんて無理なんだって。

 あんなやり方で家族になんてなれる筈がないのに。

 そりゃそうだよね、私の我が儘でイディちゃんの全部を台無しにして縛りつけようとして、愛がどうだなんて笑っちゃうよ……。

 でも、分かっててもどうしても止まりたくなかった、どうしても諦めたくなかったの。だけどね、もういいんだ。何をしたって無理だって、分かったから」


 言葉を重ねる度にリィルさんの全身から熱が失われていくようで、ワタシを押さえつけている手も打ち付けてくる寒さに凍えているみたいに震えていた。


「だから……、もういいの」


 乾ききった声だった。


「これ以上私に、願わせないで……」


 いつの間にか涙は止んでいて、顔からは色が無くなっていくみたいに血の気が失せ、瞳からも光が失われていくように淀んでいく。ワタシを抑え込んでいた筈の腕にも、もはや力は入っていなかった。


 だらりと全身を項垂らせたリィルさんは物言わぬ人形のようで、息をすることも忘れてしまったんじゃないかと思う程静かに、身動ぎ一つしなくなってしまった。


 精気も魂も、なにもかもが流れ出して身体から離れていってしまうような気配に、ぶるりと身体を震わせる。


 ――でも、まだ大丈夫だ。


 リィルさんと話ができて、分かったことも分からないことも沢山あったけど、一番大切なことは何も変わっていないと知れた。


 リィルさんの下からするりと身体を滑らせて抜け出してから、涙の跡が残る頬を両手で包むように拭ってあげた。

 ぺたんと力なく座り込んで、されるがままになっているリィルさんの頬を両手で挟み込んでこちらを向かせて、暗く沈んでいる瞳をキッと強めに覗き込む。


「リィルさん……。本当に何かもなくなってしまったと思いますか?」


 ディープブルーの瞳に自分が映りこんでいるのが見えるくらい近くで、それこそお互いの息遣いまで分かる程に面と向かって、ワタシはこちらに来て初めて相手に静かに怒りをぶつけた。


「貴女が本当に望んでいたものじゃないのかもしれない。

 でも、貴女の為になりふり構わずに奔走してる友人が、少なくとも二人います」


 今も尚、この牢の上でリィルさんのことを心から心配して、また共に笑い合えることを願っている人たちを、いなかったことには絶対にさせられない。

 だってそれは確かにリィルさんが紡いできた繋がりの結果で、彼女が望んだものの欠片に他ならないから。


 二人とのこれまでがあったから、今まで歩いてこれた。二人との思い出があったから、今がどうしようもなく苦しいんだ。


 リィルさんの口から聞けたのは、自分の思い描く家族への切望と、二人と共に過ごした時間に掛けた熱情だったのだから。


「アミッジさんがワタシを見つけた時の顔なんて、正直目を合わせるのが怖いくらい鬼気迫っていて。

 そんな顔で子供みたいなワタシを引っ張っていったら、自分がどんな風に見られるかなんて分かり切ってる筈なのに、脇目もふらず駆けだして。

 ゼタさんだって、あんな格好つけていた人が周りのことも見えなくなるぐらい狼狽えて、涙を流しながら縋ってきたんです。

 ワタシ、羨ましかったんですよ? 

 自分の為にあそこまで必死になってくれる人たちが、ワタシには思い浮かばないから」


 ――本当に、羨ましかった。


 どれだけ記憶を探ってみても、『俺』の為にあんなにも我武者羅になってくれる人なんていない。

 『俺』にはそんな人たちの影さえ浮かばないというのに、涙を流しながらワタシを案じてくれる人がいる訳がない。


 そんな掛け替えのない人たちがリィルさんには二人もいる、そのことを絶対に忘れて欲しくなかった。


「リィルさん。ワタシには子供を産めない痛みは、正直分かりません。

 リィルさんがこれまで抱えてきた苦悩も、今まさに直面している苦痛も、ほんの僅かにもワタシには想像することすら儘ならない苦しみなんだと思います」


 暗い深海色の奥に呼びかけるように、海の底に閉じこもろうとしているリィルさんを引っ張り上げようと言葉の手を伸ばす。


「でも、その苦しみから逃れようとして、友達まで捨てちゃ駄目です」


 どうか目を向けてください――。


「比べられるものじゃないっていうのは分かってます。

 血を分けた家族ではないかも知れない。でも本当の友達なら、貴女が本当に望んだものをその手に抱くまで、ずっと一緒にいてくれます、最後まで支えてくれます。

 貴女は二人と一緒にいて、なにもかも諦めずに生きていけるんです。

 あの二人は、アミッジさんとゼタさんは、貴女の為にあんなに懸命になれるあの人たちは、貴女を置いていなくなったりしていないから」


 貴女の周りには、今まで貴女が必死に紡いできた人たちとの絆が、確かにある。


 ワタシは絶対の自信を持って微笑みかける。


「リィル」


 だって、それは――。


「糸はまだ、繋がってるよ」


 貴女の名前になっているのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る