05 幸福は頭と腹と、お口から

「この口の中でふわふわ広がって、しょわしょわ~って溶けてく食感が良いんだよねー。

 ねっ、美味しいでしょ。……あれ? お~い、イディちゃ~ん」


「……」


「おーい。お返事してくれないと、私寂しいな~。イディーちゃーん……。

 答えてくれないと今から五つ数えた後に悪戯しちゃいま~す。

 ごー、よーん、さーん、にー、いーち、ゼロぉ!」


「ほおふっ!」


 視線を宙に投げ出して呆けながら歩いていると、突然摘ままれた両耳から鋭い感覚が走り、全身がビンッと突っ張ったように固まってしまった。ついでに何か変な声も出た。


「ちょっ、リィルさん。ぁっ、耳はやめ。あぁあ!」


「んー、耳は駄目なの? じゃあ、お腹をナデナデ~」


「ああぁ、そっちはもっと駄目だぁっ! やめ、やめっ。そんな、耳とお腹を同時にされたら、ワタシぃ!」


 リィルさんの細い指が絶妙な力加減と繊細なタッチで頭と腹を撫で回してくる。耳の先をくにくにと弄られていたかと思えば付け根をカリカリと引っ掻かれ、同時にへその下あたりから鳩尾までを流れるような手捌きで撫で上げられる。


 リィルさんの手が身体の上を滑る度に全身から力が抜け、思考がぼやけていく。熱っぽい吐息が耳をくすぐり、ぞわぞわとした感覚が身体中を走ると腰からくだけていくような心地になった。


「だめぇ、お願いですからぁ。やめてぇ……」


 先程ガロンさんに頭を撫でられた時も思ったが、獣人族がそうなのか、それともこの身体の性なのか、頭や腹なんかを撫でられると途轍もない幸福感に襲われるようだ。


「んふ~。そんなに潤んだ目で言われたら余計に撫で回したくなっちゃうよ。んふっ、んふふっ。頭が良いの? それともお腹?」


「ど、どっちも、だぁっぇ」


「どっちもだなんて、イディちゃんは欲張りさんだねー。いいよ、いっぱいナデナデしてあげるから。気持ちよくなちゃって、いいんだよ?」


「ああぁあぁあ~~」


 ――堕ちるぅ! このままじゃイヌ堕ちしてしまうぅ!


 野生であったことなんて一度もないのに、今確実にワタシの中の野生が失われつつあるのが分かる。


 この幸福感は危険だ。これに囚われたら最後、リィルさんにお腹を見せるのが好きになってしまう。そして無駄な装飾がついた必要のない服を着せられて、散歩という名の乳母車の運送に出かけるようになってしまう。


 ――やめて! ワタシにペッティングする気でしょう? いぬのきもちみたいに!


(……緊急時程、思考が明後日の方向にぶっ飛ぶのはどういうことなんだろうか)


 加えてこの台詞を吐くには致命的に遅すぎる。すでにリィルさんの柳のようにしなやか指は、ワタシの急所を的確に捉え、さながらワタシという楽器を奏でる熟練のハープ奏者(ハーピスト)のような流麗な手捌きで身体の上を踊っているというのに。


 そして、やはり身体は正直だった。すでに全身の力という力はリィルさんのテクニックの前に完全に屈しており、尻尾だけが勝手にぶんぶんと音が出そうな程振られ、トロトロに蕩けきった顔でリィルさんに縋っていた。


 てろんっ、と舌が垂れて、閉じなくなった口からハッハッと熱い呼気が断続的に漏れ出すのを止めようもなく、潤んだ視線でリィルさんを見上げることしか出来ない。


 頬に赤みのさした顔で、若干鼻息の荒いリィルさんが目で細く弧を描きながら迫ってくる。


「んふふっ。そんなもの欲しそうな目で見てくるなんて、やっぱりイディちゃんは欲張りさんだね。それじゃあ、もっと幸せにしてあげる」


「ハッハッハッ」


「はい。どーぞ」


「ぅんぐ」


 だらしなく開いた口にリィルさんの指が唐突に差し入れられる、と同時に口いっぱいに甘味と仄かな酸味が広がって様々な果実の香りが鼻を抜けると、じゅわりと唾液が溢れてきた。


「ん~~っ!」


 いつの間にかリィルさんの手に渡っていた糸玉を口の中に押し込まれ、先程までとはまた違う幸福感に感嘆が鼻から漏れて出た。


「どう、幸せの味でしょ?」


 引き抜いた指をぺろりと舐めながら悪戯っぽく微笑むリィルさんに、目を輝かせながらコクコクと頭を振って答え、夢中で舌を動かした。


 ――なんだこれは、どういうことだっ!?


 元の世界でもそれなりに甘味は好きだったし、なんなら週末の自分へのご褒美は大抵甘いものだった。ケーキだったり和菓子だったりとその日の気分で品を変えて、夕食後に一人静かに満たされていたものだ。


 しかし、それとはもはやかけ離れた幸福だった。


 口の中を甘みで満たされている、それだけで頬が緩んで仕方ない。これは女性特有のものなのか、それともこの身体の舌が一際甘みに敏感なのか。


 なんにしても間違いないのは、『糸玉』がめちゃくちゃ旨いといことだ。


 先程までのやり取りなんぞ遥か昔のことのように捨て置いて、コロコロと糸玉を転がした。


「気に入ってくれたみたいで良かった。あっ、でもあんまりコロコロって転がすより、舌の上に乗せて置いたり、ほっぺの内側に入れておく方が美味しく食べれるよ」


 リィルさんに言われるまま、もう一度味わいなおすように口の中で糸玉を転がしてみる。


 すると口に含んだ時は大きい飴のようだった糸玉が口の中で唾液に濡れて表面の糸が解け、それがもこもこと膨らんだかと思うと、次の瞬間にはフォームドミルクや焼いたマシュマロのような口溶けで消えていった。


 ベタつかない口溶け最高の綿飴を固めたような一品だ。


「不思議な食感、それに色んな果実の香りがする」


「野生の蜜壺蜘蛛は完熟した巨樹の実ならどんな種類でも食べるから、複雑な香りが楽しめるんだ。

 逆に養殖は一種類の実だけ食べさせて香りを強調してるのが多いかな。

 あと、お茶とかお酒に溶かしながらいただいたりもするね」


「へぇ、面白いなぁ。あっ、いえ、ですね」


「あーもぅ、言い直さなくていいのに。さっきの口調の方が可愛くって良かったよ。あんまり固いまんまだと、なんだか余所々々しくて寂しいなぁ」


 腰を屈めながら眉尻を下げて、悲しげな表情で覗き込んでくるリィルさんに、なんだかとても申し訳ないことをしている気分になってしまう。


 しかし、どうにもワタシは敬語を崩すのが苦手なのだ。


 一回意識して崩してしまえばどうってことはないのだが、その一回の難易度がとてつもなく高いのだ。


「うっ。……今後の課題ということで、ぜ、善処します」


 居た堪れない気持ちになって、思わず口をついて出たワタシの言葉を聞いた途端、先程まで悲しくて仕方ないとばかりに目を潤ませていたリィルさんが、にぃまと柔らかく頬を綻ばせた。


 なんだか上手いこと遊ばれたような気がする。


「よろしいっ! 楽しみにしておくね。あっ、それと糸玉の話しに戻るんだけど、面白さで言ったら天然も負けてないんだよ」


「へー。どんな面白さがあるんですか?」


「それはね。あっ。んー、でもなぁ。もしかしたら、もしかするかもしれないし。んー……、やっぱりまだ秘密っ」


「えぇ~、秘密って言われると余計に気になりますよぉ」


「ふふっ、じゃあ糸玉を全部食べ終わったら教えてあげる。ということで、糸玉の話は一旦おしまい。

 さ、着いたよ。ここが街の中心、大噴水大広場! 

 ここから見上げるアーセムが一番雄大だって言われてるよ」


 リィルさんに促されるまま、視線を上に向ける。


 整然とした木造りの街並みに囲まれる中、白い石造りの流麗な噴水の背後で視界に収まりきらない巨樹がそびえる。その様は、まさに圧巻の一言につきた。


 これを見るだけで、この街を訪れる価値がある。そう確信させられる光景だった。


 視線を下に戻して見ると、大広場から巨樹の根元に向かって真っ直ぐ大通りが伸びており、その正面には驚くことに巨樹に半ば飲み込まれるようにして、石造りの荘厳な建物が存在していた。


「リィルさん、あの樹の根元に飲み込まれてる建物はなんですか?」


「へぇ、イディちゃんここから協会がそんなにはっきり見えるんだ。もしかしなくても、すごい目が良いんだね」


「へ? ……あっ」


 言われて初めて気が付いた。


 この大広場から巨樹まで果たしてどのくらいの距離があるのか、正確なところは分からないが最低でも数キロはあるだろう。


 そんな遠方のことを詳細に見分ける視力など尋常ではない、勿論元の『俺』にはそんな特殊な能力などある筈もなく。詰まるところ、この身体の性能に寄るのだろう。


 というよりも、街の外から見た時に普通気が付くだろう。望遠鏡も使わずに遥かに離れた場所から街中の様子を確認できるなんて、ちょっと考えれば常人には不可能なことだ。


 なんだか、こちらに来てから注意力が散漫な気がする。そもそも『俺』は普段ならこんな子供っぽい態度はしていただろうか?


 いや確かに元々抜けてるところもあったし、舞い上がり易くもあったけど、ここまではなかった筈だ。


 ――これもやはり、この身体になったせいに違いない。間違いないな!


「えっとね、イディちゃんが見てるのはアーセム協会の本部だね。主にアーセムの研究、調査、維持を担ってるところだね。

 あと、空師ギルドの本部もあそこに入ってるよ」


「『そらし』、ですか?」


「うん。空師っているのはね、主にアーセムの剪定を生業にしている人たちのことで、今は五十万人ぐらいギルド員が登録してたかな。

 アーセムに登るにはギルドに登録しなくちゃいけないだけど、登録だけなら結構簡単にできちゃうんだ。

 そもそもこの街でアーセムと空師に関わりを持ってない人なんていないしね。木材も食べ物もアーセムからの恵みがほとんどだし」


「へー、あの樹はこの街の人にとって生活の基盤なんですね」


「勿論っ! だから空師っていのうは子供たちにとって憧れの職業だし、この街になくちゃならないものなんだよ」


 リィルさんの誇らしげな声に頷きながら、もう一度『アーセム』を見上げてみる。


 よくよく注視してみれば、アーセムの樹皮に張り付くように様々な形状の建物が散見できる。そして地上や建物どうしを繋ぐように梯子や階段、昇降機などが道を作り、上へ上へと伸びていく。どこまで、どこまでも上へ。


 人の手など及びようがないと感じさせられるアーセムの雄大な姿とは裏腹に、ここの住人たちは確かにこの巨樹と共に長い時間を掛けて、この街を作り上げてきたのが手に取るように分かる。


 アーセムは街と共にあり、街はアーセムと共にあるのだ。


 これを見るだけで、この街を訪れる価値がある。そう確信させられる光景だった。


「あ、そう言えば。先程から出てる『アーセム』っていうのは巨樹の名前ですよね?」


「そっ、巨樹の名前。

 世界に六つある宝樹の内の一つ。巨樹『アーセム』。

 直径の長さが大体三〇〇〇〇メートルで、高さは正確には分かってないけど五〇〇〇〇メートルはあるんじゃないかって話、しかもまだ成長中。

 天辺まで行って帰ってきたことある人はいないんだけどね」


 アーセムを呆けたように見上げたまま、リィルさんと言葉を交わす。その言葉通りなら、この巨体は地球でいうところの対流圏を優に超え、成層圏にまで達していることになる。


 あまりのスケールの大きさに、想像すらおぼつかなかった。


「因みにこの街の名前の『オールグ』っていうのは、古い言葉で『根っこに囲まれた道』を意味するんだって。

 開拓が進んでいなかった頃は、アーセムの根っこが地面から縦横無尽に飛び出して、迷宮みたいになっていたのを埋めたり剪定したりして、今の街並みが徐々に形作られていったんだよ」


 リィルさんのガイドに耳を傾けながら口の中に糸玉が入っていることも忘れ、間抜けにも口を開けて固まっていると、もぞもぞと何かが舌をくすぐるのを感じた。


「んう? なんらぁ?」


 糸が溶け残ったのかと思い、口の中に手を入れて引っ張り出してみた。


 すると、目の覚めるように鮮やかなサファイアブルーの身体に明るいグリーンのラインが入った、全長五センチ程の蜘蛛がルビーレッドの複眼を煌かせているのと目が合った。腹から出した糸にぶら下がり、手足をわちゃわちゃと動かしている。


 今度は、別の意味で言葉が出なかった。


 開いたまま閉じなくなった口が戦慄き、目からはポロポロと涙が零れてきた。


「リ、リィルさぁん……」


「んー。どうしたの? ……っぷ、あっははは! すごーい、イディちゃん。本当に一発で当たり引いたんだぁ!」


「あ、あたり?」


「そっ。蜜壺蜘蛛って蜘蛛なのに冬眠するんだ。

 その時に糸玉の中に籠るんだけど、たまにいる寝坊助が、蜘蛛が入っていない他の糸玉と一緒に街に運ばれて来ちゃうの。

 滅多にないし、それが人の口に入ることはもっとないんだよ。

 だからそれを食べた人には幸福が訪れる、ってこの街では言われてるんだ。

 まぁ、私は勘弁だけど」


「ワ、ワタシだって、無理だ、ってひぃう! 

 あっ、あっ、登ってきた! 

 リィルさん、どうすんの、これ。どうすればいいの?!」


 別に虫が苦手だとか、蜘蛛が駄目って訳でもない。でも、口の中から這い出てきたのに遭遇したら話は別だろう。


 震えの止まらない手に糸をつたって器用に登り、素早い動きで腕の上を駆けてくるのに、腰をおもいっきり引いてなるべく遠くへ手を突き出すことでしか抵抗できなかった。


 いつの間にか、尻尾もしっかりと股座で丸まっていた。


「ふふ、大丈夫だって。毒もないし、人を襲うこともないから。放っておけば、そのうちどっか行っちゃうよ」


「でも、はぁあっ! あ、頭に! 駄目だ、登るなぁ。ああ、耳に! 耳にぃ!」


「ふ、っくく。似合ってるよ、イディちゃん。獣人でも耳に装飾をつけるのはよくあるから。お洒落さんだね」


 ピンッ、と立ち上がったままぷるぷる震えている耳から、蜘蛛がしがみついている感触が伝わってくる。リィルさんに向けて手を伸ばし助けを求めるが、お腹を押さえて笑うばかりで、どうにかする気はまったくないようだった。


「はぁ~、笑った。それじゃあ、その蜘蛛さんに合うように、しっかり御粧ししよっか。私の店までしゅっぱ~つ」


「ああ、待って。その前にこの蜘蛛どうにかして、お願いですからぁ!」


 涙混じりの嘆願もあえなく黙殺され、ワタシは油の切れた機械のようにぎこちない動きで、手を引いて歩くリィルさんに縋るようについて行くことしか出来なかった。


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