02 親方! 空から獣っ娘が!

 初めに感じたのは柔らかな土の匂いと、さわさわと頬を撫でる若草のくすぐったさだった。


「ぅ、ん」


 それから逃れようと何度か身をよじったところで、いつもとは何か違うことに感づき目蓋を開いた。寝起きのように霞む眼を擦りながら上半身を起こすと、爽やかな風が一塊になって体の表面を吹き抜けていった。


 都会ではありえない清々しい涼を抱えた空気にぶるっ、と小さく身震いをしてから辺りを見回してみる。


 座った姿勢のまま首を巡らせてみると、ちょうど首だけが草むらから飛び出す形になって周りの様子が覗えた。


 そこには背の高い草が青々と伸び、一面に波打つ草原が広がっていた。


「なんで部屋の中に草が生えてんだよ、いやマジで笑える……草生えるわ」


 我ながら、今すごいくだらないこと言ったな。

 自己嫌悪に沈みそうになる頭をなんとか持ち上げ、視線を上に向けた。


「おっ、おぉおおお!!!」


 小高い丘の向こう、長く伸びる草原の彼方、まず目に飛び込んできたのは天を貫く巨大すぎる大樹だった。


「おっおっおっおっ、ぉおおお!」


 興奮のあまり自分でも意味の分からない声を上げながら、腹の底から湧き上がってくる熱に急かされ転がるように駆けだす。脚で草むらをかき分け、腕で風を切りながら、自分でも驚くような速度で一息に丘を駆け上がった。


「マジか……マジでファンタジーかっ! すっげぇええ!」


 ――夢だけど夢じゃなかった……今なら分かるぞ、その心!


 峰が長く続く山々の麓、くり抜かれたように広がっている盆地にその大樹は起立していた。


 雲を突き抜けどこまでも伸び上がっているその頂上は、どんなに身体を反らし、首を伸ばしてもちらりと覗うことすらできず、まさに世界を覆い尽くさんばかりに広がった樹冠は山頂にまで影を落とし、ざわざわと風に遊ぶ葉音がここまで聞こえてきそうだ。


 大樹の根元から波紋状に広がっている街並みは木造りの家が多く、その間を石畳の道が整然と走っており、その中で多種多様な人影がひしめいていた。


 腕の部分に大きな翼を持つ少女がベランダから屋根へ、さらには空へと自由に飛び回っているのが見えたかと思えば、日に燦然と輝く銀色の甲冑を纏った下半身が馬の青年が微笑みを浮かべながら街道を行き、その背には側頭部から大きな巻角を生やした赤肌の女性が蕩けるような笑みを湛えて跨っている。


 視線を街の外れに移すと、そばを流れる大きな河に大小たくさんの木造船が停泊しており、河岸には石造りの大きな建物が並び、賑やかな港の様相を呈している。


 全てが現実感を超えた美しさだった。


「くうぅっ。異世界キタ―――――――――――――――――――――!!!」


 体の内側から滾ってくる万感を、腹の底からの声に乗せて叫び上げ、全身を使ってはしゃぎ回った。


 あの自称神様に初めて感謝した。


 現れた時から契約に至るまで、碌に人の話は聞かないわ、どこまでも不遜だわ、見た目めっちゃ小学生だわで正直な話、何があっても可笑しくないどころか人生終了まで覚悟していた。


 しかし蓋を開けてみれば、まさに異世界でファンタジーな光景が確かにそこに広がっている。


 今なら古池谷のポテチを食べられたのも許せる。


「みwなwぎwっwてwきwたwwwww」


 興奮に全身を震わせ、拳を握りしめて両手を天に突き上げた。


「ん?」


 その時になってようやく、何やら日に焼けたような、淡く茶の混じった紙を握りしめていることに気が付いた。


「なんぞこれ………………は? はあ゛ぁあああぁあ――――――――――?!」


 その謎の用紙に書かれていた内容に、先程と同じくらい大きな叫び、というよりは悲鳴を上げていた。あまりの内容に頭が追い付かない。


 とりあえず中身の確認の為に声に出して、もう一度読み返してみた。


「『――君がこれを読んでいる頃には、僕はこの世にいないだろう……。』

 知るかっ! いや、落ち着け俺。相手は自称とはいえ神様。この世にいないのはむしろ普通のことだ。……つ、続きを」


「『まあ、それは置いておいて。

 これが君の手元にある頃には、君は異世界のいずこかに降り立っていることだろう。そこから君が何をしようと自由だけど、その前に今一度、君の現状を知らせておこうと思う。


 まず名前だけど、元の世界での名前のままでも良かったんだけど、それじゃあ名前を呼ばれる度に現実のことが頭を過って楽しむのに没頭できないだろうから、僕から新しい名を贈らせてもらうことにしたよ。


 君の新しい名前は「toidi」(トイディ)。

 

 君の世界のドイツという国で、幸福と成功を祈る魔よけのおまじないである「toi toi toi」と、英語の二倍とか二重の意味を持つ接頭語の「di」を合わせて命名させてもらった。


 なかなか良い名前だろ?


 でも「ディトイ」じゃ読み難いし字面も良くないから、逆にして「トイディ」。呼び名は「イディ」ってのが良いんじゃないかな。


 あと、君にあげた能力なんだけど。君の要望を一〇〇パーセント叶えた上でその世界に合うように、わざわざ僕が改良しておいてあげたよ。ああ大丈夫、お礼は必要ないよ。


 君が要望した死亡や攻撃の対象にならないのは勿論、君の身体が傷つかないようにしておいたよ。誤って毒物を口にしても効かないし病気になることもない。転んだってへっちゃらさ。


 それだけじゃなく、その世界の存在は普段は目に見えない精霊から、位の高い存在、それこそ王どころかドラゴンロードや精霊の主(ぬし)でも、君のことを全身全霊で愛し、庇護してくれるようになっているよ。やったね!


 それに合わせて身体の方もちょっとだけいじらせてもらったよ。


 具体的に言うと、君は今、獣人の女の子になってる。なんと言っても男が寵愛を受けているのを見てもおも、いや気持ち悪いからね。


 君だって男の姿で男女構わず無限の可愛がりを受けたくはないだろう?


 だから寵愛を受けるに相応しい姿にしておいたよ。大丈夫、見た目はこれ以上なくとびっきり愛らしくしておいてあげたから。やったね!


 勿論、名前や身体に関する違和感や忌避感なんかは全て排除しておいたから、そういったことで君が苛まれることがないのは保障するよ。


 これで最後なんだけど、もし君が一日を超えてそちらに滞在したい場合は、眠る直前に「明日も良い一日になりますように」と祈ってくれれば、そのままそちらの世界に留まれるようにしておいたよ。


 それとは逆に、どうしても元の世界に急いで帰りたくなった時の為に途中で帰れるようにもしておいたよ。帰りたい時は、両手を天に向かって突出して大きな声で「I’m Home!」。


 そうすればすぐに帰れるよ。


 ただし一日の途中で強制帰宅すると、時間が月曜日の朝にスリップするから気を付けてね。これはそっちの世界に一日を超えて滞在する場合も同じ、どれだけ長く居ても月曜日の朝に戻ることになるから。


 それとは別に本当に小さなペナルティがあるけど。まあ、どんなことでも途中キャンセルと延長には、追加料金とかが発生するでしょ? 小指を物の角にぶつけるとか本当に小さなことだから、何度も繰り返さなければ大丈夫でしょ。


 説明は以上!


 それじゃあ、素敵な異世界ファンジックライフを『レセスディア』で!


 楽しんでねb

                                神様 より』


 ……………………………………………………………………………………ふんっ!」


 全てを読み終わり、脳が内容を認めるのに随分と時間を要した。


 しかし、何度見直してみても眉間を揉み解し、目を細めて穴が開くほど見つめてみても、書かれている内容が変化することはなく、それを受け入れるのと同時に用紙を無意識に引き裂いていた。


「はぁはぁ、はぁ」


 荒い息遣いで空気を飲み込みながら、先程とは別の理由でわなわなと震える両手を頭に持っていき、髪を掻き分けるように探ってみる。


 すると、頭の脇から天辺にかけて長さ二〇センチ程のツンと尖った三角形の大きな耳らしきものが、ふわふわの毛に覆われて確かにそこにあった。


 続いて服の上から胸を触ってみる。手にすっぽりと収まる程度だが確かに柔らかな双丘の感触があり、無意識のうちに揉んでいた。


「んっ、ぅん……ちゃうねん。だってお約束やん」


 自分でも誰に対してしているのか分からない言い訳をしながら、羞恥心を押し殺して両手を尻に回す。感覚を頼りに尻をまさぐると、胸とは違い肉の厚いムチムチむにむにとした感触と尾てい骨の上部辺りにもふもふとした毛の感触が確認できた。


 ――見たくない……しかし、見ない訳にも、えぇいままよっ!


 頭の中を半ば以上埋める諦観の念を払いのけ、くるりと振り返った。


 ショートパンツに包まれてぷりんっ、と丸く膨らんだ尻の上。そこに陽の光を受けてもなお、儚く色を零すような白に覆われた、大きくてふわふわでもふもふの尻尾があった。


 ――知ってたよ。でも、信じたかったんだ……。


 身体から力が抜けていくのに逆らわず、そのまま草むらの中に崩れ落ちた。


 今度あの自称神様に会ったら殴、んのは怖くて出来ないから文句、も言えそうにないし、睨むぐらいなら……いや己を知れ。何も出来そうにないんだけど、どうしろと?


 如何ともし難い現実にとりあえず考えるのを止めて、もふもふに縋った。


 足の間を通して前に持ってきた尻尾を胸に抱いて顔を埋めると、自分の尻尾なのにお日様と草花の匂いを混ぜたような、なんだか不思議と落ち着く香りがした。

 感触を確かめるように手で挟み込んだり、顔を擦りつけたりして、もふもふの心地良さに浸りながら仰向けに寝転ぶ。


 脇から伸び上がった鮮やかな苗色の草々が視界を区切り、切り取ったように見える空が地球と変わらずに青いのが、なんだか感慨深かった。


 そう言えば実家を出てからじっくりと空を見上げるなんてしてなかったかも知れない。影を作るように手の甲をおでこに当て、青空と揺れる草波をぼんやりと眺めた。


 ――空はどこまでも遠く高く、透きとおった青さで……この蒼穹と比べたら、人の小ささよ。


 どうか詩的になることを許してください、黒歴史を繰り返してでも認めたくない現実が、ワタシのことを苛めるんです。


 嗚呼、地球のお父さんお母さん。どうか泣かないでください。


 貴方の息子は異世界で元気に女の子しています。


「あ、待って。涙出てきたわ……」


 自虐では傷が深くなるばかりだった。いくらポエットリーでも十年以上過去のことでも、傷は傷。黒歴史(過去)と三次元(現在)が合わさり最強になってワタシを殺しに掛かってくる。致命傷ですよコレは。


 ――涙が出ちゃう、女の子だもん。


 死体蹴りはヤメルンダ! 大丈夫、まだ大丈夫だ。身体が女の子になって、胸はそんなにないけどお尻は大きめで太腿がムチムチしていて、獣耳と尻尾が生えただけだから……やっぱダメな気がしてきたわ。


 地表を突き抜けて堕ちていきそうになる思考を振り払うように、もう一度尻尾を抱きしめた。見た目は狼か狐の尻尾に似ているように感じるが、とても大きく真っ白な毛のふわふわ、もふもふとした感触が抱き枕にするのに極上だった。


「君だけだよ……ワタシのこと分かってくれるのは」


 尻尾に顔を擦りつけると心地良い毛並みが肌の上を滑り、少しだけ心が落ち着くような気がした。これは人をダメにする尻尾だな、永遠とこうしていたい。


 きゅっ、と力を込めて抱きつくと、全身が柔らかな綿毛の中に沈んでいくような感覚に包まれ、尻尾の固い芯の部分が股座をいい具合に絞り上げてきもち


「そこから先はヘブンだっ! ……危なかった。もう少しで道を踏み外して別世界に踏み出すところだった。ここは危険だ、こんなところに居られるかっ! ワタシは街に行くぞ!」


 慌てて尻尾を放し、四つん這いになってぶるぶると身震いをしてから起き上がった。


 小高く連なっている丘の上から見下ろす街並みは遠く、にもかかわらず巨大すぎる大樹は今にも迫ってきそうなほどで、距離感が狂っているせいか徒歩でどのぐらいかかるのかも正直よく分からない。


「というかすごく自然に四つん這いで身震いしたけど、ダメだろ。さっきから一人称もワタシになってるし。そして、それを変と思えないあたり末期だよな。

 ……いやいやいや、沈むなワタシっ! 諦めるんだっ! そう全てを流し、観光のことだけを考えよう」


 こうなってしまったものはしょうがない、全てを忘れファンタジーで頭を埋め尽くそう。そして道すらないここから、どうやってあの街まで行けばいいか考えよう。


 背後を振り返ってみても丘の上は見渡す限り草原が続いているようで、街まで続く道も視界の向こう方と完全に人が使う経路から外れてしまっているようだ。


 とりあえず視界から巨樹を隠すように手で作った丸を双眼鏡代わりに、じぃっと目を凝らして街までの距離を測ってみる。正確なところは分からないが、この距離を普通に歩いていたら丸一日ぐらいはかかってしまう気がする。


 このままではワタシのファンタジックな休日が危うい、あの自称神様も異世界にただ放り出すとか、もうちょっとどころか色々と考えてから送って欲しかった。


 しゃがみ込んで、うんうんと、無い知恵を絞りだそうと頭を抱えていると、精神状態に影響されてか獣耳がへたっ、と下がってしまった。


「うん? あっ」


 失念していた、そう今のワタシは獣人であった。


 その身体能力がどの程度かは知らないが、ごく普通の運動不足サラリーマンよりはかなりマシな筈だ。なんと言ってもファンタジーの獣人と言えば、身体能力の高さが売りだと相場が決まっているからな。


「ふふふ、しかもこの身体は神様作の特別製。全力で走れば五・六時間ぐらいで着けるかもしれない。まさに、ひとっ飛びというやつだ!」


 そうと決まれば話は早い、全身の筋肉をぐいぐいと動かしストレッチをする。怪我をしないと言われているとはいえ、急に走り出したら危ないからな。

 こちとら平々凡々なサラリーマンとして仕事以外で身体を動かすなど、大学を卒業してから此の方やったことがないのだ。


 屈伸から始まり、五分ほどかけて足腰を中心に念入りなストレッチをしてから、手を後ろに引いてしゃがみ込み、ジャンプの用意をする。

 テレビなんかで県境や国境を越える時によくやっているアレだ、実はちょっと憧れていたりする。なんと言っても異世界に来てからの記念すべき始まりの一歩だ、少しでも思い出に残るようにしなければ。


 すでに丘を駆けあがったり、はしゃいだりで、何歩も異世界の地を踏みしめていると言われても、そんなことは気にしてはいけない。


 さて、それでは――いざ行かんっ!


「異世界ファンタジーは、始まりの街に向けて!

 初めの一歩、とーんだっあ゛?!」


 全力を持って一歩目に挑んだワタシは、『ドォンッ!』という重低音を響かせて、ミサイルの如く広い青空に向けて撃ち出されていた。


 一瞬、周りの景色が魚眼レンズを通したように引き伸ばされたと思ったら、次の瞬間には目の前を真っ白な雲が凄まじい速度で後方に流れていくのが映っていた。


「あぁっあっあっあぁあああぁ――――――!!!」


 ごうぐおう、と風を突き破っていく音を聞きながら、我が身は空中を滑るように突き進んでいく。


 遥か下方では地表が次々に景色を変えていき、普通に生きていたら一生体験すべきではない遥か上空での紐なしバンジー状態に、尻尾が自然に股座で丸まっていた。


 身体が動き方を忘れてしまったのか、体育座りのように足を胸に引き寄せ、手は祈るように組んだまま固まってしまう。


 祈ると言っても、断じてあの自称神様にではない。もしかしたら助けてくれるかもなんて欠片も思っていない。いないったら、いない。でも、ちょっとでも覗いていたら手を貸してくれても良いんだよ?


 しかし、虚しかな。そんなことを考えてられたのもわずか数秒の内で、ドップラー効果に乗せた悲鳴を上げている時には、街はすでにもう少しというところまで迫ってきていた。


 ――まさに、ひとっ飛びだったな……。


「て悠長なっ?! あ゛ぁ、待って待って待って! このままだと着弾しちゃうぅ!!!」


 あと数秒もすれば街に続く門の十数メートル手前の地面を、我が身をもって撃ち抜くのが容易に想像できる。


 通行人や荷車なんかが通る度に踏み固められたであろう地面は見るからに硬そうで、そんなところに(どれだけ出ているかも分からないが)凄まじい速度で生身のままツッコんだら良い子にも悪い子にも見せられない、スプラッタな状態になるのは必至だ。


 目の前に迫った生命存続の危機に、ようやく動き方を思い出したのか手足がバタバタと意味のない挙動を繰り返し、ありもしない何かを探すように首をあちこち向けてみるが、優れた身体能力も空中にあっては全てが無意味だった。


 そのくせ性能だけは優秀なようで、視界の中を流れていく舞い上げられた草葉や塵一つにいたるまでがはっきりと知覚でき、わずか数秒の恐怖だったはずが十分にも二十分にも感じられた。


 しかし、それだけの体感時間を得ても、恐怖に痺れた脳が明確な打開案を弾きだすことはなく。纏まらない思考がごちゃごちゃと入り乱れ、真っ白に染まった頭の中を探ってみても、意味のない言葉がまとわりついてくるだけだった。


(どうする、どうするっ?! どうしようもないけど、どうにかしないと、どうすることも出来なくなって、どうにかなっちゃうのは明確で、でもどうやって……? あ、)


 いつの間にか、地面は手を伸ばせば届くところまで迫っていた。


 ――これ間に合わないわ。


「ひぃっ。た、たすけ」


 恐怖に引きつった喉は掠れて悲鳴を上げるのも儘ならず、頭を庇い身体を丸めることしか出来なかった。


 身を竦ませて、これから襲いくるだろう衝撃に凍りつく。


 しかし、固く閉ざした視界の中でいつまで待っても、それらしい音も感触も伝わってこなかった。


 恐る恐る、ゆっくりと慎重に、片方だけ目蓋を持ち上げてみる。


「……へ? ど、どうなってんの?」


 つい先ほどまで凄まじい速度で迫ってきていた地面が、爪先のわずか数十センチのところで止まっていた。しかし今回は体感的にゆっくりと時間が進んでいるという訳ではなく、ワタシの身体が空中で動きを止めているようだった。


 困惑に安堵を加えて余計に回らなくなった頭のまま、辺りを見回してみる。


 すると、小指の先ぐらいの小さくて半透明の何かが薄ぼんやりと発光しながら、周りをふよふよと遊泳するように飛んでいた。それも一匹や二匹どころではなく何十匹とワタシに群がっている。


「えっと、助けてくれたん、ですかね?」


 つるりとした滑らかな表面をしており、海の天使ことクリオネのような姿をしたそれらは、小さな羽らしきものをぱたぱたと振りながら、肯定するようにすり寄ってきた。


「あ、ありがとうぅ。うぅ、自分ではどうにもできなかったので助かりました。本当にありがとうございますぅ」


 耳はぺたんとへたれ、瞳からはぽろぽろと勝手に涙が零れてきた。鼻をぐずぐず鳴らしながら自分でも情けなくなるような声で、ペコペコと頭を下げながら礼を言っていると、身体が徐々に下がっていき、ようやく地面に足が着いた。


 ああ、愛しの地面よ。今度からは一歩一歩、歩く度に感謝の念で踏みしめようと思います。


「……あれ?」


 しかし踏みしめた地面に硬さはなく、ふかふかとした高級絨毯のような感触が返ってきた。見た目とのギャップに思わずしゃがみ込み手で触れてみると、入念に耕したばかりの畑のようにきめの細かい柔らかな手触りだった。


「どうなってんだ?」


 そう誰に向けたわけでもなく独り言ちると、土の中からひょこりと、またも小さな発光体が顔を出した。今度のはミミズのような姿をしており、土の中に半ば埋もれながら顔だけをこちらに向けているようだった。


「えっと、お気遣い? ありがとうございます」


 一応、礼を言って頭を下げると、向こうもぺこりと器用に返礼してきた。どうにも彼らは言葉を理解できるようだった。


「あの、本当にありがたいんですけど。街道をこのままにしておくと、他の人たちが困ると思うので、戻してもらっても?」


 相手の様子を窺いながら尋ねてみると、ミミズのような彼はもう一度土の中に潜っていき、次の瞬間にはしっかりとした土の固い感触が足の裏に伝わってきた。


「ありがとう」


 もう一度顔を覗かせたそれのチンアナゴ的な可愛らしさに、無意識に微笑んで返すと、もじもじと身体を揺すってから隠れるように土の中に引っ込んでしまった。


 もしかしたら恥ずかしがり屋なのかもしれない。


「はぁ~、本当に助かったぁ。しかし一時はどうなるかと、特に目の前に地面が迫ってきた時なんか、背筋がぞわぞわっとして下腹部がきゅうぅっと……はっ、まさか!」


 ひらめきを得た時のエジソンも同じ衝撃を味わったに違いない。まさに雷に打たれような感触が身体を走り抜けるのと同時に、気付いてしまった。気付いてしまったからには、確かめずにはいられなかった。


 サーッ、と血の気が引いていくのを感じながら、こっちに来てから震えっぱなしの手を恐る恐る股間に持っていき、そぉっと撫でてみる。


「……良かった。大丈夫みたいだなっ!」


 ちょっと湿っている気がしないでもないが、それは汗だから大丈夫だった。獣人の鋭敏な嗅覚が極わずかに香ばしい匂いを拾ったが、これも汗の匂いだからなんの心配もいらない。


「ダイジョウダイジョウブ、世界ハ今日モ回ッテルカラ」


 クリオネのような彼らが慰めるように、柔らか微風と共に頭を撫でてくれるが、落ち込むことなど何も無かったというのに何を慰めるというのか、それが分からない。


 でも、今のワタシの瞳はきっと死んでいるだろう。陸に打ち上げられて一時間たった魚ですら、今ならその道を譲るぐらいに死んでいるだろう。


 カラカラと乾いた笑いが独りでに溢れだすのをそのままに呆けていると、背後からザリッと靴が砂を噛む音が聞こえてきた。

 それと同時に先程までワタシを取り囲むに泳いでいたクリオネっぽい彼らが、急に色と光を無くして溶けるように消えてしまった。


「えっと。そこの貴女、大丈夫?」


 聞こえてきた春の陽気のように柔らかな声に慌てて振り返ると、二十代半ばの美しい女性が腰を屈め、太陽の光を束ねたようなブロンドの髪を風に揺らしながら、こちらを心配そうに覗き込んでいた。

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