あるはげた日に
坂水
第1話 登校
十四歳。思春期真っ盛りの女子中学生である己の頭に、ハゲを発見した朝。志田キヨミは冗談でもなんでもなく、自殺を考えた。
額の左上、いわゆる前頭骨。ばっちり鏡で確認できる部位に、小指の先サイズの白く、初々しく、ツヤツヤした楕円形。桜の花びらを連想させる、いっそ『可愛らしい』と形容しても良いぐらいの。おそるおそる指を伸ばすと、頭皮の滑らかな、それでいて張りのある感触が伝わってきた。感情は否定しようとするが、視覚、触覚ともに『有効!』のフラッグを掲げ、その実存を脳に訴える。
キヨミは洗面所の前でがっくりとうなだれた。
理由はわかっていた。もちろん、白血病を宣告され、抗がん剤を投与されての副作用ではない。先日読んだ漫画のヒロインのような。
理由。それはストレスだ。
勉強、部活、トモダチ付き合い……学校はサバンナさながらに厳しい野生の王国。四方八方から災厄が押し寄せる。疲れ果てた戦士を癒してくれるはずの巣穴(いえ)は、建替えローン、父親の単身赴任、同居&介護問題エトセトラエトセトラにて、今にも崩壊寸前。キヨミはびょうびょうと吹くストレスの風にさらされていた。
だからってこれはないんじゃない、なったらオシマイじゃん、どうしてもうちょっと堪えられなかったの――愛用のブラシを片手に、己の不甲斐無さを罵る。
この小さな楕円が新たなストレスを呼び、新たなストレスは楕円を拡大・成長・増殖させ、中くらいになった楕円がさらなる新たなストレスを呼び、さらなる新たなストレスは中くらいの楕円を拡大・成長・増殖させ、大きくなった楕円が……ああ! げに恐ろしき無限地獄。
こうなってはもう、なすべきことはただ一つ。だけども一体どうして遺書を書こう。『拝啓……敬具』みたいな定型文はあるのだろうか。ペンの色はやっぱり黒だろうか。水性でも良いだろうか。そもそもウチに真面目なレターセットってあったっけ? 最後に手紙を出した時は『りぼん』の付録を使ったような……
「早くしないと遅れるわよ」
母親の声に、釣り上げられた魚みたいにビクンと両肩が跳ね上がる。
もちろん、遺書なんて本気じゃない。不謹慎であることも承知している。『ハゲができたので死にます』なんて書いたら、どこのお坊さんも読経を唱えてくれないだろう。
キヨミは手早くセミロングの髪を梳き、いつも通りうなじの少し上で一つに束ねた。鏡をじっと覗き込む。幸い、後ろに引っ張られる髪によって楕円はうまい具合に隠される。だが、上から見下ろされたり、光を当てられたりしたら、真昼の月のごとく、薄っすらおぼろに、しかし、たしかに浮き上がるだろう。
もし、これが、友人一同――娯楽に餓えている田舎の女子中学生――に知られたら……
ちょっと皆、この子ハゲちゃってるよー。
うわ本当だ。これから広がる可能性、アリだよね。
毎日、どれだけ大きくなるかチェックしよう。
定規持ってきてあげたよー。
じっとして、あんたのためだって。
うちのじいちゃんのカツラのパンフ持ってこようか?
彼女らは、優しさとおせっかいと揶揄の絶妙な間のラインを保ったまま、嬉々としてこの小さな獲物に襲い掛かるはず。そしてにっこり笑い、親しみを込め、口を揃えて、キヨミを新しい
――ね、『アート●イチャー』!
喉の奥で悲鳴が弾ける。頭蓋がきゅぅっと引き絞られる。全身の毛穴が開く。
キヨミが思い付くということは、間違いなく彼女らもこの残酷な名に辿りつく。所詮、田舎の中学生。賢さの程度は一緒なのだ。
絶対に知られてはならない。あと一年と数カ月続くスクールライフを、通学路に沿って流れる用水路のごとく、汚泥とゴミと腐臭まみれにするわけにはいかない。いっそ油性ペンで塗り潰してしまおうかと考える。しかし、もしばれたら、今度はその隠蔽行為を追及されてしまうに違いない。
最悪の事態を想定し、最善を目指す。
再度、鏡を見つめる。そこには生真面目な表情をした女子中学生がいた。いつもは気にする鼻の脇に住み着いたニキビにも構っていられない。
キヨミは悲愴な決意をする。第二次世界大戦末期ひめゆり部隊の少女たちには遠く及ばなくとも、現代に生きる彼女なりに必死に。
かくて、長い長い一日の幕が上がったのだった。
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