第38話 魔獣の村
鉄砲水の濁流に流され、アリシア達とはぐれてから既に3日ほど経っている。日数が多少曖昧なのは、僕が気を失っていた時間がどのくらいだったのかが正確には分からないから。仮に、流された翌朝にこの村で目が覚めていたとしたら……という前提での日数計算である。
「ゆーき、げんきなりましたか。ごはんたべるよろし」
灰色の大きな耳が特徴の、ウサーギという種類の魔獣の女の子が僕に声をかけてきた。そう、ここは彼女らの巣穴――というには立派過ぎる家である。丸太で組まれた柱に木の枝やつる性植物を編んで壁が作られている。家の中心にはかまどがあり、そこで調理や暖をとるのだ。
僕がこの村に流れ着いて気を失っていたとき、このチュリスという女の子に助けられて、この家に運ばれていた。それ以来、こうして世話になっている訳だ。
かまどにはこの家の家族が座って僕を待っていてくれている。この家はチュリスの父と母、そしておばあさんの4人家族だ。皆いい人達でとても親切にしてくれている。
「ゆーきさん、モロコシのスープ、たべるよろし」
チュリスのお母さんが、大きな木の実の殻で作った食器にスープをよそって僕の前に置いた。筒状の植物の茎を加工して作ったスプーンで食べてみると、とても薄味のクリームスープのようだった。
「ゆーきさん、オロイモ、たべるよろし」
チュリスのおばあさんが、大きな植物の葉っぱに包んで焼いたイモを勧めてくれた。うん、これは味付けこそないけれど、そこそこ美味しい。
よし、沢山食べて体力を付けないと!
3日目にしてようやく僕のリハビリ生活も終わりを告げようとしていた。昨日まではろくに歩くこともままならず、チュリスに支えてもらいながら村の中を歩くような生活をしていたからな……
「ゆーきさん、げんきげんきね、よかたですね」
僕が手を握り握力を確かめたり、腕をぐるぐる回している様子を見た魔獣ウサーギ家の主、チュリスのお父さんが、大きな前歯を見せて笑った。
彼らはもちろん人間ではなく、そして魔人でもない。魔獣にしては高い知能を持ったいわば亜魔人とでもいうべき存在。世界にはまだこうした魔獣でもなく魔人でもない亜魔人が住む集落が多く残されているらしい。
ウサーギ族の彼らは、森の先住民である耳の先が尖った種族――エルフ――が残した結界によって、外界との接触を避け、この村で静かに暮らしているのだ。
今回の鉄砲水で結界の一部が破れ、僕が流れ着いてきた。100年振りの人間との遭遇に彼らは大騒ぎだったらしいけれど、優しいチュリス一家に引き取られ今に至っている。
身長は僕の肩ぐらいのチュリスは、見た目では僕の妹と呼んでもおかしくはない年齢に見える女の子。長い耳にくりっとした大きくてピンク色の瞳。団子っ鼻の下に控えめな口。前歯が4本出ているけれど、そのお陰で固い木の実でもガシガシ食べることができるらしい。鼻をいつもひくひく動かしているのも見慣れてくると可愛らしい。
ウサーギ族の皆は体全体が短毛で覆われていて、その毛並みは様々である。チュリス一家は灰色で、額から背中にかけて白毛の筋が通っている。他には白と黒の斑模様や全身真っ白という家族もいた。それぞれの家族が家をもち、質素だけれど平和な暮らしをしているようだ。
「ゆーき、さんぽするよろし。ちゅりすたのしみ」
チュリスが僕の体を支えて立たせようとしてきた。昨夜までの僕は確かに1人で立ち上がることもままならないほど体力が消耗していたのだ。でももう大丈夫。
「うわっ、ゆーき、げんきげんき。げんきになたある」
「ゆーきさん、よろこびあるね」
「ゆーきさん、たてたたてた」
僕は一人で立ち上がっただけなのに、チュリスとその両親がぴょんぴょん跳ねて喜んでいる。小さな家の中が大騒ぎになった。
「ゆーきさん、ちゃのむね」
そんな中、いつもマイペースなチュリスのおばあさんは、僕に植物の葉をお湯で煎じて飲む、独特な味のお茶を勧めてきた。
*****
僕とチュリスは小川に来ていた。僕がこの村に流れ着いたときに、チュリスが発見してくれた場所を見ておきたかったのだ。
そこは太い幹の木がまばらに生えている、比較的見通しの良い場所だった。鉄砲水の爪痕がくっきりと残されていて、多くの枝葉が木の根元に絡んでいる。僕の体はそんなぐちゃぐちゃに絡んだ枝葉の中に横たわっていたようだ。チュリスが身振り手振りで説明してくれた。
「ゆーき、ここ、ここ、ここに、ここに」
チュリスが何度も何度も指を差して僕に何かを伝えようとしている。どうやら、発見当時の状態を再現するために僕に横になれと言っているようだ。
そこまでする必要はないのだけれど……
うへっ!
チュリスが横になった僕の体の上に草や枝をかぶせてきた。そこまで完璧に再現しなくてもいいのに。顔の上にもかぶさせれて口の中が土臭くなってしまった。そしてチュリスが小走りに遠ざかっていく足音が聞こえる。きっと彼女は僕を発見する少し前の状態から再現するつもりなんだろう。なんだか本格的になってきてしまった。
しんと静まりかえった森の中で、川のせせらぎだけが聞こえている。
草や枯葉に囲まれて薄暗くなった空間で、僕はアリシアが必死で僕の腕をつかんでいる顔を思い出す。電飾ウナギの粘液でぬるっと滑って、手が離れた瞬間の彼女の表情が忘れられない。何もかもに絶望したような、悲しいような、苦しいような表情。僕はここで生きているよ。それを早く伝えたくて飛び起きそうになったそのとき――
「きゅきゅる、きゅるきゅるきゅうううー」
チュリスの鳴き声で僕は現実に引き戻された。彼女は僕を発見した時の様子を熱演してくれている。ウサーギ族の言葉は僕には魔獣の鳴き声にしか聞こえないけれども、慌てふためいている様子は伝わってくる。ひとしきり彼女は騒いだ後、うつぶせになっている僕の両腕をつかみ、ぐいっと引き寄せた。
うぷっ――
うわわわわっ――
チュリスのたわわな胸に僕の顔面が埋もれてしまっている。
終わり終わり、もう終わり!
素直なチュリスは僕がどんな感じで発見されたかを知りたいと言ったばかりに、ここまで忠実に当時のことを再現してくれた。この後、小さな体のチュリスは僕を両手で抱きかかえるように家まで運んでくれたのだろう。
それにしても……やはりチュリスは胸がおっきい。命の恩人である彼女を変な目で見ないように気をつけていたのだけれど……柔らかかったなぁ……あー、ダメダメ、そんなこと考えてはっ!
「ゆーき、どした」
僕が首を振って邪念を振り払おうとしていると、チュリスが心配そうに声をかけてきた。僕がなんでもないと答えると、彼女は僕の手を握ってにっこりと笑って、そのまま僕を引っ張って歩き出した。
うん、これはお散歩だね。
チュリスが飼い主で僕がペット。
家々が立ち並ぶ集落に入ると、あちらこちらからウサーギ族の子供達がやってくる。始めの頃こそ人間の僕の姿に恐れを抱いていた彼らも、チュリスが仲良くしている相手なら大丈夫という感じに受け入れてくれている。
それにしてもチュリスは人気者なんだな。小さな女の子の長い耳にリボンを巻いてあげたり、編み物を教えてあげたり、長毛種の女の子の髪を編んであげたりしている。
それを見ていた僕にも男の子が声をかけてきて、いつの間にか植物の蔓を丸めたボールを投げて一緒に遊んだりして楽しく過ごした。
やがて日が陰り始めて、子供達が少しずつ家々に帰り始めてきた頃、寂しい気分になってきた。明日の朝、僕はこの村を出る。もう決心したんだ。魔獣ウサーギ族のこの小さな村に、ここまでの愛着をもつようになるとは。彼らは優しく、僕に懐いてくれていた。
チュリスと手を繋いで家路につく。その途中、前方から何やら騒がしい音が聞こえてきた。チュリスの家のさらに奥の方から――
「ゆーきさん、にげるのにげるの」
「ゆーきさん、にげてにげて」
「ゆーきさん、あわてるあわてる」
チュリスの両親とおばあさんが僕らに向かって叫んでいる。
おばあさんはチュリスの父と母に腕を引っ張られて走っている。
チュリスはウサーギ族の言葉で彼らと会話し、
「ゆーき、こっちこっち」
今来た道を引き返すように僕の手を引っ張った。
まるで状況がわからない僕は、後ろを振り返りながらチュリスに付いていく。
僕らの後ろから他の家族が続々とこちらに向かって走って来ている。
まるで何かから逃げて来るように。
白と黒の斑模様のウサーギが悲鳴を上げた。
彼の背中には弓矢が刺さり、その尖った先端は胸の先まで貫通していた。
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