境目

淺羽一

序章

 その顔は怒っているのか、驚いているのか。それとも、ほんの少しでも哀しんでくれているのだろうか。普段はまるで見られそうにない鉄二てつじの正面に立ったまま、私はもう一度、出来る限り冷たく聞こえるように告げた。

「だから、言ってるじゃない。あんたの事なんて、別にどうでも良いんだって」

 鉄二は何も答えない。ただこちらを見つめてくるだけで、何も応えてくれない。そんな現実が無性に切なくて、ほんの一瞬でも気を抜いたら、きっと自分は泣き出してしまうんだろうと分かった。だから私は、もうとにかくこの状況を一刻も早く終わらせたくて早口に言った。

「ね、分かったでしょ。悪いけど、そろそろ行って良いかな」

 返事も待たずに背を向けた。途端、胸の奥から込み上げてくるものがあったけれど、奥歯と唇に力を入れてやり過ごした。

 昼休みの校舎裏、初春の柔らかな気候の中で他に人影はない。きっとクラスの女友達からこんなシチュエーションの話を聞かされていた時だったなら、みんなと一緒にはしゃぎながら羨ましがっていたかも知れない。でも、今はとにかく逃げ出したい気持ちで一杯だった。

 だけど、それなのに私が歩き出すよりも僅かに早く、鉄二が「待てよ」と言ってきた。決して強い口調ではなく、むしろ簡単に無視してしまえそうなくらい静かな声だったのに、それだけで私の足は持ち主に逆らって動きを止めた。

「ちょっと待てよ。何だよ、それ」

「何って、そのままの意味じゃん」 私は振り返らなかった。

「って言うか、何でお前が切れてんだよ」

「別に、切れてないし」

「だったらその態度は何なんだよ」

「うっさいわね。そんなの、どうだって良いでしょ」

 気付いてよと、思った。どうして分からないのよと、叫びたくなった。

 代わりに口から出てきたのは、自分でも恐くなるくらい無機的な声だった。「って言うか、あんたも案外しつこいよね」

 背後で、鉄二が息を呑んだのが分かった。頭の中で、彼が浮かべているだろう表情が再現された。泣きたくなるほどの罪悪感が襲ってきて、苦しくて、悲しくて、本当に身勝手な話だろうけれど、どうして私にこんな想いをさせるのよと、いっそ腹が立ってきた。さっさとチャイムが鳴ってくれれば良いのにと、生まれて初めて大嫌いな英語の授業の開始を願った。

「……っつーか、こっち向けよ」

 押し殺している風な声をぶつけられて、いよいよ手が震えてきた。

 もう無理だと確信した。これ以上この場所にいたら、私の心は壊れてしまう。

「だから、言ってるでしょ」

 振り向いて、思い切り鉄二を睨んだ。そうでもして目に力を込めていないと、涙が溢れて止まらなくなりそうで恐かった。

「正直、今さら告白とかされても、迷惑なんだってば」

 鉄二は、やっぱり私を真っ直ぐに見つめてきていた。こんな時まで話し相手の目をきちんと見つめる生真面目さに、そんな誠実さとは裏腹な相変わらずの鈍感さに、怒りと呆れと、それから仄かな可笑しさが湧いてきて、改めて己の気持ちを自覚した。

「あんたと付き合うとか、マジで無理だから」

 今ならまだ間に合うと思った。だから、今すぐに気付いてよと想った。私のことを好きだって言うのなら、私の心もちゃんと理解してよと、鼓動が速くなりすぎて潰れてしまいそうな胸の中で絶叫した。

 それなのに、鉄二は結局、鉄二だった。馬鹿で、鈍感で、そのくせ変に面倒見が良くて、他のどの男子よりも優しい、そんな人間だった。

「……ごめん、悪かったよ」

 期待とはかけ離れていて、それなのにあっさりと予想出来ていた言葉に加えて、深々と頭まで下げられて。気付けば私は駆け出していた。再び上げられた顔とまともに向き合える自信なんて欠片もなかった。ましてや、そんな自分の姿をもう彼に見られたくなかった。

 私は、泣かなかった。ようやく鳴り響いた予鈴の中、教室に辿り着いてからも、泣かなかった。むしろ、隣の席から「何の話だったの」と気遣わしげに尋ねてくる希美のぞみに対して、笑いかけてさえいた。

「別に、大した事じゃないよ」

「でも」

「本当だってば」

「……だったら、良いんだけど」

「ほらほら、それよりも授業の準備でもしときなさいって」

 こちらの返答を完璧には信じていないようで、だけど同時にかすかに安堵してもいそうな希美に笑顔を向けながら、絶対にまだ泣けないと、吐き気を無理矢理に胸の奥に閉じ込めているみたいな心地で思っていた。

「……ねぇ、沙耶さや。本当に、大丈夫?」

「大丈夫も何も、別にどうもしてないってば」

 お願いだから気付いてよと、胸の隅っこで情けなく泣いている自分には、とりあえず苦手な英語の教科書で蓋をした。

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