07.作家からの提案

 トキの明らかに忘れて居るであろう態度を目にしても、識条美代の態度は変わらなかった。彼女はトキに対して非常に友好的だ。


「それで、この間の話、考えてくれましたか? あっ、でもその様子だとお話の内容を忘れてしまっていそうですけど」


 眉根を寄せて一応は考える素振りを見せたトキだったが、最終的には思い出すのをすぐに諦めた。首を振って「知らん」、と一蹴する。


「残念です! もう一回、この間の話しますね。ほら、あなたのお友達、ミソギさん! 彼女について、私にお話してくれたら、彼女の焦臭い噂話をお調べしますよって感じの話です!」

「――……ああ。貴様、あの時の胡散臭い女か」


 黙って南雲は考察に努める。

 彼、トキは「必要の無い事を覚える事が、一切無い」。それは絶対的な法則。誰にでも適用され、例外があるとすればミソギ関係の話だけだ。それなりの時間、後輩として横に居た自分との会話でさえよく忘れている。必要が無いからだ。

 だからこそ。識条美代の顔と名前は全く覚えていなかったが、会話の内容は、覚えていた。彼にとって必要だったからだ。そうして、芋づる式に思い出されたホラー作家の記憶。


 トキの記憶が蘇った事を実感したのか、識条美代は嬉しそうに手を打った。快活な女性だ。とてもホラー小説の作家とは思えない。どんな感じの人間かだなんて、偏見と妄想でしかないけれど。


「それでそれで、考えてくれました?」


 そんな話、すぐ断るに決まっている。何せミソギの焦臭い噂だ。そんな噂がある事すら知らないし、何を焦臭くすると言うのだ。最も混み合っている事情を抱えていた、公園の怪異は滅した訳だし。

 しかし、南雲の予想に反してトキは一瞬だけ言葉に詰まった。よからぬ事を一瞬だけ考えたような、分かりやすい間だった。


「……いい。貴様と手を組む気は無いし、ミソギに焦臭い噂話など無い。つまり、調査など不要だ」

「本当にそうですかぁ? 怪しくないところが一番可笑しくて、がん細胞のようだっただなんて……そんな話、小説の中だけだとでも? 現実は小説より奇なり。リアルの方がずっともっと、臭いものなんですよ」

「…………」

「それにあなた、即断即決の人じゃないですか! 迷うって事は、気に掛かる事があるって事でしょう? 良いんですか、本当に」

「要らん、失せろ。何かあるのなら、本人がそう言ってくる」

「そうですか。残念。あなたとは、上手くやれる気がするんですけどねぇ。まあいいです。今日は患者さんにインタビューをする為に来たのですから。また来ますね」


 一方的にそう告げると識条美代は離れて行った。そのまま、丁度止まったエレベーターで3階へ。急にやって来て、引き際も華麗な人物だったと言える。

 ただし、この時同じく美代が乗った隣のエレベーターからミソギが下りて来た。氷雨の姿は無く、彼女一人だけだ。


 こちらに気付いたミソギは奇跡的に小説家とドッキングする事無く、いつも通り、何も変わらない足取りと表情で輪に加わる。


「ただいまー。待たせてごめんね」

「それはいい。奴はお前に何の用事があったんだ」

「え? 何か、302号室の妹さんにはあまり近付くなっていう注意? だったかな。よく分かんないんだよね。何が言いたいのか」


 当のミソギは首を傾げていて、やはりいつも通り絶妙に頼りない。一方で、トキはと言うと識条美代の言葉に触発されたのか、らしくない問いを口にした。


「お前、変な事に巻き込まれているんじゃないだろうな」

「いいや、別に?」

「変な嘘を吐いている訳ではないだろうな。だいたい、この間――」


 何事かを言いかけたトキは言葉を止め、珍しく煮え切らない表情で胡乱げに視線を彷徨わせた。喧嘩の予感に震える南雲へ追い打ちを掛けるように、ミソギから表情が瞬きの一瞬だけ消え失せる。


「この間、何? まさかトキ、3年前みたいに神経質になってる? 何も起きてないのに? まずは落ち着こうよ。そして、この間何だったのか私に白状しようか」


 ――大喧嘩の予感!

 ここに来てようやく南雲は動いた。


「あー、先輩? 支部に戻って報告しなきゃいけないんじゃねぇっすか? それに、蛍火さんにも終わった事を伝えないと……。今は仕事をしましょうよ!」

「チッ、おい行くぞ。仕事を終える」

「えっ、ちょっと!」


 ミソギが引き留めたが、話題は闇に葬られてしまった。


 ***


 静まっている店内にはグラスを僅かに合わせる音や、小さな食器を扱う音のみが響き、曲名も分からない穏やかなBGMが掛かっている。見るからにお高そうな、イタリアンの店だ。


 そんな店内でやや浮いている和装、妙齢の男性と彼より少しばかり若く、上品なドレスを着た女性が相対していた。和と洋、男性と女性、歳もややバラつきがある――

 関係性が職場の同僚以外に思い付かない彼等は、店内の雰囲気に合わせて小声で話をしていた。


「三舟。貴方、最近若い女の子とよく食事をしているそうね。止めておきなさいよ、警察のお世話になりたくないのなら」

「おや、個室でなければ話を聞く事すらままならない職場なのでね。品の無い話は止めて貰おう。ところで、君も相変わらず年齢の偽証が上手いようだな、緋桜」

「歳の話は止めなさい」


 トゲトゲした会話。それを呼吸するように終えた2人は、やはり見た目通りに仕事の話を始めた。


「相楽が管轄している霊障センターの3階に、怪異を生み出しかねない一般人を収容しているのよ」

「ああ、そうだったな」

「わざわざ部下を異動させて見張らせているのだけれど、貴方が最近、引き入れようとしているなんとかって言う赤札」

「ミソギの事かね」

「ええ。そのミソギに、樋川結芽が執着しているわ。何故なのかは分からないのだけれど」

「それを私に伝えてどうしたいのかね」

「私は相楽の組合に立場上、口出しが出来ない。自分でミソギの事は見ておきなさいな」


 はあ、と態とらしい溜息を吐いた相楽はフォークを持つ手を止めた。


「息をするように私へ仕事を押しつけるな……。とはいえ、今ミソギを突かれるのは面倒だ。今回だけだと思ってくれたまえ。あと、相楽にちょっかいを出し過ぎている。疑われて居るぞ、君は。気を付けろ」

「あら、立場をよく理解しているようね。ご忠告と併せて感謝するわ」


 はあ、と今度は緋桜が深い溜息を吐く。


「本当、内監はやりにくい……」

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