06.アメノミヤ奇譚

「それにしても、この雨はいつまで降るのだろうか」


 不意に雨空を見上げた十束は呟いた。梅雨というわけでもないのに降り続ける雨は偶然だろうか、それとも必然だろうか。何だか出会した怪異達も水に由来するモノのようだし、偶然の一言では片付けられない。


「そうだね。取り敢えず、ズボンが水を吸って気持ち悪いかな」

「俺は靴も浸水していて不快な気分だ……あ」


 などと言って余所見していたからだろうか。それなりに深い水溜まりに足を突っ込んでしまった。舌打ちしたい気分になりながらも何の気なしに水溜まりに視線を移す――


「えっ!? 何だ!?」


 完全に無意識での行動だったが、取ったその行動は正解だったと言えるだろう。

 ただの水溜まりであるはずのそれから、白い手が伸びてきた。慌ててそれを回避する。手は所在なさげに空を彷徨うと、やがて水溜まりの縁を掴んだ。ずるずると手の主が水溜まりから湧き出るように出現する。


 それは先程まで複数で追い掛けて来ていた怪異とは様子が異なっていた。

 足の竦むような、何かとても大きなモノに圧倒されているような別の意味での恐怖。例えるならそれは、ウサギがライオンの前に放り出された心境に似ているのかもしれない。

 豪奢な着物は青を基調にした水紋のような意匠があしらわれている。何より、その怪異は物理的な意味でも大きかった。体格の良い十束を頭2つ分程抜かした身長がある。人型をしているが、元は人ではないのだろう。

 長く伸びた髪は顔面を完全に覆い隠し、更には水滴が滴り落ちている。こんな重そうな着物を着ているのに、全身ずぶ濡れ。異様な光景に脳処理が追い付かない。


「十束!!」

「うっ……」


 久しく忘れていた恐怖という感情が全身を駆け巡る。足が竦んで動かない。雨宮が逃げよう、としきりに声を掛けて来るがそれでも両足はコンクリートか何かで固められたように全く動かなかった。

 ぶつぶつ、ぶつぶつ。

 全く何を言っているのか分からない、呪文のような音を漏らしながら怪異がゆっくりと距離を詰めてくる。獲物を追い詰めた事を理解している肉食獣の動きだ。


「十束、狙われてるって! 早く、動いてっ!」


 自分にはまるで怪異の言葉が分からないが、霊感が少しだけ高い雨宮には言葉の意を理解出来たようだった。緩やかに現実逃避する脳の片隅、その反対側で怪異が異様に青白い手を伸ばして着たのを知覚する。

 一度は逃げる素振りを見せた雨宮はしかし、逃げ出さなかった。どころか、その手に霊符を1枚だけ持って応戦する気満々である。


「ま、待て、そいつに霊符は効かないと思――」


 怪異の視線が雨宮へと移る。瞬間、彼女は霊符を投げつけた。

 すぐに霊符は水に浸したように湿り、そして力を失って地面にゆるりと落ちていく。そして、怪異が取った行動もまた迅速だった。霊符を失った雨宮へと思いの外素早い動きで手を翳す。

 バックステップでそれを回避しようとした彼女の頬に、伸びて来た怪異の白い指先が僅かに掠った――


「あ、雨宮!?」


 たったそれだけ。それだけで糸の切れた人形のように、唐突に全身の力を失った彼女が仰向けに倒れるのを見た。硬直していた足が自然に動き、地面に後頭部を打ち付ける前に雨宮を支える。

 ポケットに手を突っ込み、効かないと証明されたはずの霊符へ手を伸ばす――はた、とその手を止めた。


「どこへ行った……?」


 人間2人を仕留める気だったらしい怪異の姿が消えた。

 釈然としないが、これ幸いと気を失っている雨宮の肩を叩く。


「おい、しっかりしろ!」


 返事が無い。息はしているし、目立った霊障も無いがそれでも意識が戻らない。しかし、一カ所に留まる訳にもいかない。

 がさがさ、と不意に背後からそんな音がした。


「トキ……?」


 やっぱり返事は無い。

 仲間ではないと判断し、雨宮を背負って駆ける。これが火事場の馬鹿力と言うやつか。不思議な事に、今まで覚えていた疲れも忘れて無心で走る、走る。


 今まで複数で追って来る怪異が蔓延っているのだと思い込んでいたが、先程水溜まりから現れた別の怪異は完全に別格だった。何か、通常の怪異とは違う圧というか、障気とは違う気配を感じたのだ。

 それが何であるのかは分からない。しかし、本能が警鐘を鳴らしている。

 ――あの複数で追って来る怪異の比では無いくらいに、水溜まりから出て来た『アレ』は危険だと。


 無我夢中で走っていた十束は足を止めた。

 気付けば全然知らない光景が広がっている。しかも、冷静になって考えてみれば公園の出口とは逆方向に走って来てしまったようだ。そのぎ公園は山を背に設計されているので、出入り口の反対側は必然的に山。

 このまま走り続ければ山中に入ってしまう事となり、余計に分が悪い。


 しかし、立ち止まったからこそ理解したが、雨宮を背負ったまま長時間移動するのはもう無理だ。そもそも体力をかなり奪われていたし、ここまでかなりの距離を走っている。

 身体の限界をひしひしと感じながら周囲を見回してみた。動いている自分はともかく、雨宮は雨に濡れている訳だし低体温症? なんかになりかねない。どこか雨を凌げる場所で休まなければ。

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