5話 4時44分の大鏡

01.鏡の中と外

 2階と3階間の大鏡。頭から爪先まで写せる大きさのそれは変わることなく粛々とそこに鎮座していた。真っ暗なのでライトが必要だが、その光を鏡が反射して眩しい事この上無い。

 しかも大変静かなので、ミソギのぶつぶつと溢れる独り言が小さく反響して普通に恐ろしい。何と言っているのだろうか。「熱い熱い熱い」? 明らかに正常では無い様子に戦慄するも、他の面々はそれに触れるような事はしなかった。


「えーっと、何でしたっけ。浅日さん? とやらが鏡の中に引き摺り込まれたのを救出しに来たんすよね、俺等」


 沈黙が居たたまれなくなった南雲はそう訊ねた。そうよ、とカミツレが力強く頷く。一度は恐怖に駆られて逃げ出した、とここへ来る途中にそう言っていた彼女だが、最初に覚えたという恐怖は今は微塵も感じられない。

 相方である浅日を助ける、その強い意志は僅かながら南雲の恐怖をも薄れさせた。


 んー、と鏡を照らして覗き込んでいた紫門が首を傾げる。鏡に触れてみたり、と大胆な行動を取ってはいるが何か怒る様子は無い。


「えーっと、浅日くんはどんな風に鏡の中に取り込まれたのかな?」

「現場は見ていないんです。ただ、あたし、霊感があるから。浅日の気配が鏡の中に消えて行ったとしか……」

「そうか。まあ、七不思議にもなっているスポットだしその推理は順当だよね。んー、アカリちゃん、大鏡ってどんな七不思議だったかもう一度説明して貰って良いかな?」


 事の成り行きを少し離れた所から見守っていたアカリは紫門の言葉に小さく頷く。カミツレに触発されてか、元・女子中学生もまた神妙そうな顔をしていた。


「えーっと、この鏡は『4時44分の大鏡』っていう七不思議なの。午前4時だよ。午後は16時だからね。で、その時間に大鏡に全身が映るように立つと鏡の世界へ行けるって話。戻って来た話は聞かないかな」

「ありがちだな。南雲、今は何時だ」


 トキがそう訊ねたのでスマホの画面に視線を落とす。最初に時間を見た時と同様、時刻は4時44分を指していた。明らかに正常では無い時間である。


「4時44分っすね。でも、確か俺と先輩達が会った時からずっとこの時間っしょ。あり得ねぇって」


 言いながら、何も起きないのを良い事に南雲もまた恐る恐る鏡を覗き込む。鏡は背後の風景を映し出していた。木造の床に今にも床が抜けそうな木の階段。まさに木造校舎と言った体だ――


「ん?」


 不意に襲ってくる違和感。その正体を思案していると、紫門が溜息を吐いた。


「困ったな。せめて鏡の中とやらにボクも入る事が出来たのなら、打開策はあったのだけれど。どうしたものかな、攻略法が思い付かないよ」

「おい。鏡の中へ入ったところで、出られなければ夏の虫と同じだぞ、馬鹿め」

「飛んで火に入る、ってね。いやでも、入れるって事は出られるって事じゃないかい?」


 2人の会話が頭に入って来ない。

 気付いた。

 違和感の正体に。


「ね、ちょ、あの――俺の勘違いかもしれないんすけど……。鏡の中の校舎と、俺達が今居るこの校舎、違くないっすか?」

「何ッ!?」


「浅日!」


 トキの怒号にも似た問いと、カミツレの声が重なった。同時に上がった大声に、紫門が一瞬の判断を誤る。

 南雲の隣を抜け、トキを押し退け、大鏡に手を伸ばした彼女の身体がそのまま――まるで最初からそこにはいなかったかのように忽然と消え失せた。待て、と叫んだ紫門の手がカミツレに届かず空を切る。


「カミツレ!」


 慌てたように叫んだ紫門が鏡に触れたがしかし、その手は当然鏡に阻まれた。鏡の中の校舎を脇目も振らずにカミツレが駆けて行き、やがて見えなくなる。

 それを見送ったトキがぽつりと呟いた。


「おい。……おい、これはどうするんだ?」

「ボクが聞きたいよ。うわあ、どうするんだ。彼女、霊力値低いんだよね? 困ったなあ。ボクがカミツレちゃんの立場だったら興奮するけど、彼女は被虐趣味者では無さそうだし」

「そこじゃねーよ! アンタ真面目に考える気あんのか!!」


 ところで、とトキが眉根を寄せる。


「南雲。お前今、鏡の中の校舎と、今私達が立っている校舎が違うと言ったな」

「い、言いましたけど! 今それどころじゃなくないっすか!?」

「慌てた所でどうしようもないだろうが。私達は何故だか鏡の中に入れん。なら、有効手段を探る事が一番の近道だ」

「まあ、それもそうっすね……。というか、見れば分かるじゃないすか。だって、鏡の中は木造校舎。ここは石じゃん」


 トキと紫門が顔を見合わせる。そして全く同時に怪訝そうな顔をした。この人達、実は息がピッタリなんじゃなかろうか。


「いや、私には通常通りの校舎が写っているようにしか見えないな」

「ボクも同じくだね。んー……、霊感値かな? 南雲くんって霊感値は幾つだっけ?」

「あ、俺今、腹減ってるんで大分高めだと思いますけど」


 紫門の薄く細められた双眸がトキを捉える。彼は頭を横に振った。


「私の値は低いぞ。雑魚霊も見えない」

「ボクの霊感値は低く無いけれど、ボクの特定条件は校舎へ入ったその瞬間からずっと発動しているからね。霊力共に底上げされているはずだ。トキくんは最近調子悪いんだっけ? 霊力値は最低値だと思っていいかな。ならば、霊力値が低く、且つ霊感値が高いカミツレちゃんだけが中へ入れた事にも説明が付く」

「どうだかな。ともあれ、南雲を鏡の中へねじ込んでみるのはどうだ。奴が中へ入れるのなら、向こう側の景色が見える人間だけが入れるという仮説が成立する」


 恐ろしい相談を始めた先輩を前に、後輩は「勘弁して下さいよ」、と泣き崩れた。

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