04.怪異『キョウカさん』

 ゆらり、と『キョウカさん』が動いた。一歩、酷くゆっくりと距離を詰めて来る。十束が叫んだ。


「俺が気を惹く! その間にお前達は怪異の隣を擦り抜けて、外に出るんだ!」

「ええ!? それ、十束はどうするの?」

「後で追い掛けるから大丈夫だ! 物理的な体力には自信もある事だしな!」


 ――それフラグぅ!

 しかし、妥当な案とも言える。このままでは良くて全員憑かれる、悪ければ全滅だ。3人全員が助かる方が望ましい。が、現実とは非情なものである。

 分かった、と返事しかけた口を塞いだのはトキの思わぬ一言だった。


「自己犠牲のつもりか? 自殺なら余所でやれ、貴様に何事か起きて寝覚めが悪くなるのは私達だぞッ!」

「そんな事を言っている場合か!? 俺やお前の特定条件は上がり下がりを制御出来ない! ミソギは何としてでも逃がさないと、この後詰むぞ!」

「ああそうだな、貴様のお目出度い脳内はすでに詰んでいるな。雨宮の件、忘れたとは言わせないぞ! 同じ事を繰り返すなッ! 学習能力ゼロか!? だから貴様は信用出来ないと言っているんだッ!!」

「俺が信用出来ないのは良い、だが今それを論じている場合じゃないだろう!? 雨宮の事を持ち出すと、話が逸れるじゃないか! それに俺は、あの時みたいに自分だけ逃げ果せるような事にはなりたくないんだ!」

「いいや、私の言葉は最初から一貫している! 何を言っているのか分からないと貴様がそう言うのは、私の言葉を欠片も聞く気が無いからだ!!」


 ――何で今喧嘩するかなあ!

 双方とも、致命的なすれ違いをしているのはうっすらと分かる言葉の応酬。しかし、今はそれを解きほぐし、理解する事に務める暇は無い。というか、喧嘩をしている時間すら惜しい。


「ちょっと! 喧嘩しないでってば! いいから、どうにかして逃げよう? 怒鳴りあってないでさあ! みんなで逃げれば良いじゃん。1人だけ置いていくなんておかしいよ、そう言いたかったんだよね、トキは!」

「ちがっ――」

「せーの、で全員バラバラの方向に走って、最終的には書斎から出よう! はい、せーのっ!」


 言うが早いか、ミソギは駆けだした。人間の思考とは上手く出来ているもので、命の危険を前にすれば感情的な恐怖は一時的とはいえ麻痺したように形を潜める。自分がしっかりしなければ、口論している内に『キョウカさん』に追い詰められると思ったからかもしれない。


 大変珍しい事に、身体能力お化けの2人を差し置いてミソギは先頭に躍り出た。自然、怪異がこちらをゆっくりと向き、進路を変える。ただし、その動きは酷くのろかった。雨の日のカタツムリくらいの速度。


「――え……!?」


 視界が蜃気楼のようにゆらり、揺らめいた。

 生理的に行われた瞬きの合間に、気付けば目と鼻の先に怪異が迫っている。いっそ暴力的なまでの強烈な花の香りに、叫ぶ事すら忘れた。

 整った女性の顔が、にんまりと邪悪な笑みを浮かべる。

 力無く垂れ下がっていた腕が伸びてきて、ミソギの手首を掴んだ。まるで雪か氷にでも触れたような冷たさに、忘れていた叫び声が自然と喉から迫り上がる。


「ひっ、ぎゃあああああ!? つめ、つめたっ! 手ぇつめたっ!!」


 火事場の馬鹿力。

 普段使わないような身体の筋肉が勝手に総動員され、遮二無二腕を振り回す。かなり強い力で握られたような感触があったものの、もう一度それに反応して叫び声を上げたら手が離れて行った。

 最早、他2人の安否を確認すること無く、どさくさに紛れて怪異を突き飛ばし部屋の外へ駆け出す。


「えあっ!? 誰もいな――」

「走れ! 隣の部屋に退避して、盛り塩!」


 力のある温かい手に背を押された。後から来ていた十束だ。その隣にはトキも当然いる。もう一度だけ足に力を込め、転がり込むように隣の部屋へ入った。最後に入室したトキがドアをぴったりと閉め、素早く霊符を貼る。

 同時、十束がそれに塩を振り掛けた。ただの味塩なのだが、果たして本当に効果はあるのだろうか。


 盛り塩、という業界用語を耳にしたのを思い出し、ミソギは慌てて鞄の中から追加の食塩を取り出すと慣れた手つきで4つ、手早く盛った。

 これらの手法は時間稼ぎにしかならないが、機関で行われる研修中に習う、一番凡庸性の高い結界だ。ただし、大抵の場合は数分で破られるが。


 人を13人くらい殺してそうな形相でドアを睨み付けていたトキが、不意に脱力して盛り塩を設置する輪に加わった。


「気配は感じなくなった。諦めたのか、他に標的を移したのかもしれない」

「そうか……。いやしかし、いきなりミソギが突っ込んで行った時は肝を冷やしたぞ。どうしてあんな無茶をしたんだ。お前はただでさえ貧弱だし、叫んでいない時は家のルンバくらいの戦闘力しかないじゃないか!」

「十束さん、言い過ぎでは? というか、こっちは2人が怪異を目の前に喧嘩を始めた時の方が肝を冷やしたよ。正気なのかなって……」


 ぐったりと床に座り込んだトキが深々と溜息を吐き出した。お疲れのようだ。


「ミソギ。貴様次は無いからな……雑な事を、するなッ!」

「じゃああの状況で喧嘩とか始めないで貰えるかな……」


 うわあ、と十束が目を見開く。その指はミソギの手首を指していた。


「それ酷いな。帰ったら霊障センターに行った方が良いぞ」

「えっ? うわっ! 怖い、私の手が怖い!!」


 ――もう嫌になってくるなあ!

 心中で泣き言を吐き出す。先程、怪異に掴まれた手首に黒い手形のようなものが浮かび上がっていた。あまりにも不気味なそれが自身の身体にくっきりと浮かんでいるという事実が涙を誘う。

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