春咲きの恋

白神護

春咲きの恋

 僕は目をしばたかせた。視界一杯を優に覆って、本マグロの大群が泳いでいる。

 僕は今、水族館に居るわけではない。ダイビング中でもなければ、ガラス張りの船底から海中を覗いているわけでもない。

 僕は今、平々凡々な三両編成の列車の中にいた。出入り口の近くに立って、ドアの窓から夜の闇を凝視していた。その只中に彼らは突然やってきて、猛スピードで列車を追い越していくのだった。これは夢かと僕は思った。

 僕はロボットみたいにぎこちなく、車両の中を見回した。同車両に人影はない。僕は続けて、列車の車両の連結部から、隣の車両の方を見遣った。

 そこには彼女が居た。隣のクラスの真柴さんだ。二人席を向かい合わせにしたボックス席で、すやすやと寝息を立てている。かわいい。

 一生、彼女を見つめ続けていたいくらいには、かわいい。しかし僕は涙を呑んで、車窓向こうの本マグロを振り返る。マグロは既に消えていた。

 僕は興味本位で車窓に頬を擦り付けて、列車の進行方向を見つめた。マグロたちが泳いでいった方向だ。すると、隣の車両の車窓の明かりで、マグロの肌が煌めいて、光った。

 どうやら、見間違いや幻覚ではなかったらしい。とすると、やはりこれは夢なのだろう。夜と列車と本マグロと、そして彼女の夢。

 変な夢だ。この上なく。そして、その変な夢のいち登場人物として、彼女という存在がある。そのことを、僕はとても、嬉しく思った。


              ◇   ◇   ◇


 マグロの過ぎ去った車窓の闇には、自身の何の面白みもない顔つきだけが浮き立って残った。それは若干薄暗く、そして若干透けている。僕はジッとそいつを見つめて、そいつの向こうの夜を見遣った。べったりとした暗闇の中に、一枚の花弁を、僕は見つけた。


 その朝、朝焼けに照らされた満開の桜は、燃えるようなオレンジ色だった。

 僕はオレンジの花弁に降られて、早朝の街中を自転車で駆けた。ふうっと息を吐けばまだ白く、未だ肌寒い早春の、静寂に満ちた神秘的な朝だった。

 その日は高等学校の入学式があった日で、僕は緊張で胃を痛めながら、一時間も余裕をもって家を出た。最寄り駅は窓口すらまだ開いていなくて、当然、人の気配もなかった。

 新品の定期で改札を潜り、駅舎の階段を上って下り、始発前のホームに降り立つ。そこでようやく、その日一番の他人を見かけた。それが、真柴さんだった。

 彼女は閑散としたホームに立って、伸び伸びと緊張していた。誰かの視線を気にすることなく屈伸し、大げさに深呼吸し、泣きそうな顔で行ったり来たりした。

 ――うわぁ。めちゃくちゃ緊張してる。

 僕はホームに出て行き辛くて、階段の陰に身を投じた。せめて同性だったなら、僕は気軽に躍り出られたかもしれない。当時、僕には女性に対する免疫というものが決定的に欠けていた。今も足りているとは言い難い。

 朝の喧騒はまだ遠い。彼女のローファーの音だけが、タンタンタンと忙しなく響く。彼女の靴音に声が重なり、「友だち、出来るかな」「担任の先生、怖くないといいな」「自己紹介、なんていえばいいんだろう」等々、彼女の不安が幻聴となって、僕の精神に反響する。

 ――やめてくれぇ……。胃が痛くなる!

 彼女の深い溜息に、僕の小さい溜息が重なる。それと同時に、ホームにアナウンスが流れた。もうすぐ列車がやってくる。

「よしっ」

 アナウンスに紛れて、彼女の決意の声が聞こえる。陰から覗くと、小さく握りこぶしを握っている。顔を出したばかりの太陽と睨み合い、彼女は何らかの決意を抱いていた。

 風が吹いて、桜が舞った。彼女の短い黒髪が揺れて、真新しい制服の裾野が靡く。

 僕は惚けて阿呆になった。

 ホームに列車が滑り込み、彼女を乗せて走り出す。列車に乗り損ねたことを、僕は、暫くの間、気づけなかった。


              ◇   ◇   ◇


 朝焼けが遠のいて、闇に呑まれる。夜の中を列車は進む。僕は隣の車両を振り返った。

 彼女は穏やかに寝こけている。ひらひらとらんちゅうが尾を靡かせて、彼女の周囲を遊泳している。らんちゅうはこちらの車両にもいて、電灯の真下をくるくると周回している。

 あの金魚がらんちゅうという種類だということを、僕は父に聞かされて学んだ。父は金魚を三匹飼っていて、そのどれもがらんちゅうだった。

 電灯付近のらんちゅうは、まるで誘蛾灯に集うヤママユのように、ふらふらと宙を舞っていた。僕は少し心配になって、らんちゅうの方を注視した。

 その心配は現実になった。らんちゅうが電灯にぶつかって、パチリと青白い火花が散った。らんちゅうだったものは一瞬で煙に転じて、瞬く間に姿を消した。それは忍の変わり身の術のようであった。僕は不安定に瞬く電灯を見つめ続けた。

 パチリ。パチリパチリ。パチッ、パチッ、パチッ。


              ◇   ◇   ◇


 パチリ。

 と僕は瞳を開いた。そこは、春の陽気に包まれた、教室の窓際の席だった。

 四月も半ばで、既に桜は散っていた。代わりに瑞々しい葉桜が茂って、初夏の日差しを今か今かと待ち侘びている。そんな密やかな力を、僕はグラウンドのサクラに見とめた。

 今は昼食後の現国の真っ只中で、誰もが気だるげに項垂れている。僕は板書を書き写しながら、グラウンドの方に視線を落とした。

 ――あ。真柴さんだ。

 グラウンドに降り注ぐ柔らかい春の日差しの中に、彼女の後ろ姿は在った。隣には親友らしい女子生徒が居て、楽しげに肩を揺らしている。笑い合っているらしい。

 良い雰囲気を纏っていて、僕は何となく安心する。

 あの春先の早朝の決意から約二週間。真柴さんは順調な高校生活を送っているらしかった。

「お前、真柴のこと好きなの?」

 彼女の実情を尋ねたとき、隣のクラスの部活仲間は僕に尋ね返してきた。当然、僕は答えに窮した。その沈黙を彼の視点で見るならば、それは違えようのないイエスであった。

 彼は僕の肩に腕を回して、ぼそぼそと小声で耳打ちした。

「なら、早く告白しとけよ。真柴、結構、モテるんだぜ」

 その瞬間、僕と彼は戦友となった。彼はややお節介気味に僕の恋路を開拓し、代わりに僕は彼の学業の支えとなった。間接的にではあるが、彼女のおかげで僕は唯一無二の友を得た。

 結局、彼女への告白はままならなかったが、彼のことは、今でも友だと思っている。


              ◇   ◇   ◇


 グラウンドに動きがあった。彼女とその友人。その他の女子が集まって、一つの輪っかを作っている。僕はジッと目を凝らし、その中心の黒い豆粒を判別しようと試みた。

 輪の中の女子の一人が、一歩内側へ進み出て、黒い豆粒を優しく撫ぜる。何かがゆらゆらと微かに揺れる。尻尾か。そのことに気づいたとき、あれが猫だとすんなり思えた。

 そういえば、グラウンドに黒猫が忍び込んだことがあった。僕は頬杖をついて、ぼんやりとそっちの方を見つめた。

 黒猫。黒猫……。


 ――ニャア!!


「っ!!」

 猫の鳴き声が耳元で聞こえた。いつのまにか、膝の上に猫が乗っかっている。辺りは無機質な蛍光灯のみで照らし出されて、車窓の向こうには暗闇が流れている。

 僕は列車のボックス席に座っていて、膝の上には黒猫が居座っていた。

 ――ニャア。

 黒猫は一つ鳴き声を上げて、名残もなく僕の膝から飛び降りた。そのままとことこと駆けていく。僕は呆然として、ゆらゆらと揺れる尻尾を追った。

 真っ黒な毛並みとブルーの瞳。黒猫はカリカリと連結部の扉を掻いた。そして、時折こちらを振り返る。「早く開けろよ。察しが悪いな」今に、舌打ちでもしだしそうな雰囲気を纏って、黒猫は僕を視線で射抜いた。僕は素直にそちらへ寄って、扉の取っ手に手をかけた。


              ◇   ◇   ◇


 車両間の二枚の扉を引き開け、僕らは隣の車両へ移った。僕が二枚目の扉を開けた途端、黒猫は振り返りもせずとことこと駆け出した。お礼もないのかと、その背中を目で追っていたら、黒猫は、あろうことか彼女の膝上へ飛び乗った。

「おいっ」

 僕は咄嗟に声を発していた。黒猫がニタリと意地悪く笑って、それと同時に彼女が薄っすらと目蓋を開いた。

「…………」

「…………」

 寝ぼけ眼の彼女の視線が、ピタリと僕の両目を見据える。僕は車両の連結部近くで立ち尽くしたまま、微動だに出来ない。段々と見開かれていく彼女の瞳を、僕は息を殺して見つめ返した。

 やがて彼女は口を開く。

「……佐伯、君?」

「あ……、はい」

「佐伯君?」

「はい。……はい」

 彼女は座席に着いたまま、くるりと一周、辺りを見回す。そして、ナニからドコまでを納得したのか、取りあえず右の手のひらを天井に向けた。

「あの……、座る?」

「えっ」

「えっ……? あ、嫌……?」

「いやいやいやいや! 座ります、座ります!」

「えっ、……あっ、はい」

「じゃ、じゃあ……」

「うん。どうぞ」

「どうも……」

「…………」

「…………」

 気まずい沈黙の中に、僕らは在った。彼女は俯きがちになって、膝上の猫を優しく撫ぜた。僕も黒猫を真摯に見つめた。二人の人間の熱心な視線を浴びて、黒猫は疎ましげに身じろぎを繰り返した。

 僕は彼女と話したいことがあって、それは彼女も同じかもしれないとも考えていた。どちらが会話の口火を切るべきなのか、僕と彼女は黒猫を見つめながら考えた。

 列車は揺れる。いつ、この夢が泡沫うたかたに消えるとも知れない。僕は早々に結論を出して、こちらから話そうと口を開いた。

「ねえ、佐伯君」

 彼女は膝の上の黒猫を見つめている。前髪に隠れて、瞳が見えない。声音は暗く、重い。僕は慌てて口を閉じた。

「あの日のこと、覚えてる?」

 顔を上げずに、彼女は尋ねた。

 

              ◇   ◇   ◇


 あの日のこと。黒猫がチラリとこちらを見遣った。ブルーの瞳の深いところに、あの日の光景を僕は見つけた。


 僕はあの日、偶々、学外で彼女の姿を見つけた。彼女は交叉点の縁に立ち、信号が変わるのを待っていた。傍には黒猫が座っていた。そいつも、どうやら信号を待っているらしかった。

 春の終わりと夏の始まり。その微妙な境界線上に彼女は在って、心地の良い風が駆け抜けていった。一方の歩行者信号からカッコウの音が聞こえなくなって、チカチカと点滅をし始めた。

 ああ、もうすぐ信号が変わるな、と僕は思った。


 ――トン。


 と、黒猫が地面を蹴った。

 そのことに、僕は気づけなかった。周囲の誰も、気づかなかった。彼女だけが、全てを見ていた。

 黄色から赤色の変わり目を狙って、黒塗りの車が猛進してくる。彼女が駆け出す。僕は驚愕で言葉も出ない。そこでようやく、全てに気がつく。そうして――。


 ――ダァンッ。


 大きな音がして、身体が吹き飛んだ。色々なモノが出ていった。僕らは遠目に、白と青の表情を突き付け合った。助かりようのない怪我だと、僕は一瞬で理解した。

 一粒だけ、涙が零れた。


              ◇   ◇   ◇


「……佐伯君?」

 彼女の声で、僕は意識を取り戻す。僕は右手で口元を抑えて、視線を車窓の向こうに振った。東の空が、微かに白み始めている。きっともうすぐ、夜が明ける。

「うん、覚えてるよ」

 僕は彼女を見つめてはっきりと答えた。彼女は俯いて、視線を上げない。

「……そっか」

「うん」

「…………」

 彼女が再び口を閉じる。僕はすかさず口を挟んだ。

「あのさ」

「……うん」

「好きだったんだ。真柴さんのこと」

「…………えっ?」

 パッと彼女が顔を上げた。そこに暗い色はなくて、困惑と驚愕のみがあった。頬が朱色に染まっている。僕は少し、楽しくなった。

「それはもう、命くらい惜しくもないぐらいに大好きだった」

「……っ、……っ!」

 彼女がかあっと顔を赤らめる。黒猫は彼女の膝から飛び降りて、とことことどこかへ駆けて行った。彼なりに、空気を読んだのかも知れない。

「真柴さん。好きです」

「……っ」

「真柴さん。大好きです」

「……っ!」

「だから――」


 ――パアアァァッ。


 警笛が全てを打ち消して、辺り一帯に響き渡る。東の地平の彼方から、朝陽がゆっくりと顔を出す。あの早春の朝焼けに、僕らは同時に目を眩ませた。

 車窓の向こうでオレンジの花弁が舞っている。僕の一方的な恋心は、なんだかよく分からない列車の中で、六か月越しで彼女に届いた。きっともうすぐ、目が覚める。

「佐伯君」

 彼女に呼ばれて、僕らは見つめ合う。彼女は泣いていた。僕も泣きたくなったけど、涙は生者の特権らしい。あの日の血に塗れた一滴の涙で、僕の一生分は流れ出てしまった。

「じゃあ、元気で」

 僕は席を立った。列車が徐々に速度を緩めていく。アナウンスが鳴り響く。彼女が慌てて、目を覚ます――。


              ◇   ◇   ◇


 アナウンスが鳴って、目が覚めた。列車は既に動きを止めていた。私は慌てて鞄を提げて、列車からホームに降り立った。温かな夢の心地よい余韻は、晩秋の風に吹かれて消え去った。

 もう、何も残っていない。

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春咲きの恋 白神護 @shirakami

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