仄青い
僕はいつも持ち歩いている手帳に、これから二年半使うことになるだろう筆名を、ボールペンでさらさらと書いた。コンクリートむき出しの部室は窓から差し込む夕陽に照らされていた。窓から覗く桜はすっかり葉桜となっていた。部室内の三分の一を占拠している、大きな本棚に並んだ本の背表紙が、これから訪れる宵を喜んでいるように見えた。かつての先輩が置いていった、体育の授業で使ったピンクのゴムボールが、ヴァイオレットに色めく。僕は自分が書いた筆名をまじまじと眺めてみる。お世辞にも流麗な筆致とは言えなかった。僕は漢字が大の苦手であり、それは苦手という区域から大きく下を這いずっていると言ってよく、さして難しくない筆名を漢字で書けたのは、前日に書き取って練習をしてきたからである。「薄ら氷章介」と、少しお値段が高めの手帳の、品質のいい紙に書かれ、自己主張が受け止められるのをうずうずと待っている。書き取りの成果かどうか、いつもノートに書くような字よりは、二倍も三倍も綺麗に書けていて、ささやかな誇らしさを覚えた。「これ、なんて読むの? うすらごおり?」初夏に出す部誌の中に載る予定の新入生紹介コーナー、そのページを担当することになっている遠藤茉奈が、筆名を見て読みを尋ねてきた。遠藤茉奈はふたつ上の先輩で、高校三年生、文芸部の副部長を務めている。「うすらひしょうすけ、です」「うすらひ、ねえ」「うすらひ、と、うすらび、と読み方がふたつあって、どっちにしようか迷ったんですけど、うすらひが僕の中で勝ちました」うすらひ、では発音しにくい。うすらびのが語呂がいい。だからこそ、十五歳の僕が持つささやかな反抗心は、うすらひを選んだ。「私はうすらびの方が好きだけど」結局はどうでもよさそうに遠藤茉奈は言った。そしてそのセリフこそが、僕が待ち望んでいたものだったのだ。紛れもなく。
* * *
ブルームーンのための小品集 三『塵埃を照らす青い光によせて』
もう一度、見上げてみた。実際にはっきりと青い色をしているわけではない。ないのだが、これはおそらくブルームーンというものなんだろう。様相をわずかだけ変えた月の写真を見たことがある。写真だけ見て、ブルームーンについての詳しい説明は読み飛ばしてしまった。だから、本当のところ、天上にあるものがブルームーンと呼ばれるものであるのか、それははっきりしない。それでも、僕の中で頭上の月をブルーと定義するだけなら、いくらでも許される気がした。
今日、乙幡周子は死んだ。それだけが、唯一確かなことだった。
フリーランスでゲームのシナリオなどを書いている限りでは、スーツの類いは必要がない。そして、礼服は持ち合わせがない。成人式の時に着たスーツは、もうサイズが合わなくなっている。無理に着られないこともないだろうが、周子を見送るのにそんな体では、後々まで忘れがたい、苦い葬式になってしまうだろう。あまりにも自分が情けなくて。しかし、体調を崩して、仕事のペースが極めて遅くなっている今、歩合制で仕事をしている僕には貯金がなく、借金だけがあり、スーツを新調する余裕はどこにもない。結局、僕は葬式には出ないことに決めた。葬式において、故人は当然ながらこの世にいない。霊魂なんて僕は信じていない。葬式というセレモニーは、遺族が心の整理をつけるために催されるものだ。はっきりと死んだことを確認して、別れの挨拶を済ませて、そこで初めて、故人は遺族の意識下で黄泉にカテゴライズされるのだ。ならばこそ僕は葬式には行くまいと思ったのだ。スーツの問題だけではない。それは自分の思いに気づくきっかけに過ぎなかった。僕は、周子を救えなかった傷を、一生そのまま、未整理の形で残しておきたいと思ったのだ。折に触れ痛みを味わい、記憶が風化して砂になるまで、それがいつ頃になるかはわからないが、後悔を持て余していたかった。僕は自分自身が許せなかった。どうしようもなかったことであると思うと同時に、どうしようもない現実をこそ変える力のない自分を憎んだ。
僕は歩いている。人造湖があり、その周りは一帯が保護林になっている。人造湖を包む保護林に沿って歩き続けている。おそらく、近場ではこのあたりが最も暗い場所だろう。星を少しでも多く見るために、僕はここまで来た。高校の時、毎夜のように天体観測をしていたという周子に少しでも寄り添いたくて。生きていた時の周子に触れられる気がして。どうかしている。
月の光。
ただ静かに、困惑と、惰弱な僕の生を照らす。
周子が最後に電話をかけた相手は僕だった。
鬱をひどくして、寝汗で淀んだ布団にくるまって呻いていた僕は、その電話に気づけなかった。後で、周子からの着信履歴とその後に届いたメールに気づいた時には、もう手遅れだった。
《カーテンレールが壊れた!失敗だー!》
メールにはそう書かれていた。一度目は失敗していたのだ。そして、二回目は成功した。
月は仄青く、星は巡る。
きっと来年の今日には、強く痛みを思い出す。
できればその翌年も、翌々年も、痛みを覚えていたい。
月は仄青く、星は巡る。
僕もいつか死ぬことだけが真実。
それでも、もう周子とは会えないことが現実。
月は仄青く、星は巡る。
十年後も思い出したい。
* * *
詩情ばかりが行きすぎる
不当廉売されていく
それでもなお、詩に意味があると言うなら
きみの心音を聞きたい
* * *
浅黄色をした老翁、エトピリカの長老が、天穹の影で揺れる。大気と大気の隙間で、僕と僕を見下ろしている。明日なんか欲しがったことのない僕を責め立てるように。何も望まなかったと言えばそれは嘘になる。けれど、明日なんて日は永劫来ないで欲しかった。僕はむしろ多くのものを望みながらも、世界の不調和にだけたゆたっていたかった。それは諦念そのものだった。そして、僕と周子の曖昧な関係に似ている気がした。中学校の校庭には大きな銀杏の木があり、それは学校が建てられる前から夕焼けに染まってきた。四季折々によってその姿は潤色されてきた。僕はそれがなぜか気にくわなかった。テニスコートの近くにあって邪魔だったからという理由ではないだろう。そのことぐらいしか分からなかった。漠然と大樹を見上げて、どうしてかいつも悔しさを覚えるのだった。それは、僕がいつまで経っても世界に勝てないと突きつけられるゆえではなかったか。不条理と不調和の中で呼吸して生きていかねばならないと、その象徴としての木だと、僕がそう感じてしまったからではないだろうか。それよりもずっと高く、浅黄色をした老翁、エトピリカの長老が、天穹の影で揺れる。大気と大気の隙間で、僕と僕を見下ろしている。明日なんか欲しがったことのない僕を責め立てるように。そして僕と僕が会話を始めるのだ。「お前が確たる愛を与えてやれれば、彼女は死なずに済んだのだ」「周子の死が、今でも自分のせいだと思えてならない時がある」「もっと近くに寄り添えていれば」「お前がそれを責めるのか。その資格があるのか」「真実を告げるのに許可は要らない」「それが本当に真実だと思っているのか」「また明日が訪れることほどには確たるものではないが、地球の自転よりは真理に近い」「星は減速を続けている」「老翁が」「宵に」「死を」「詩を」「息づく」「言葉を」「もたらしてくれるだろう」「そしてそれを墓前に捧げればいいというだけなんだろう」「横着はよくない」「ルールを守っていたら僕はもはや何もできない」「老翁が見ている」「彼が断罪することは決してない」「見ているだけだ」「もはや地に降りることすらできない」「老翁」「老翁は知っている。彼女がなぜ死んだのかを」「劇的に過ぎる展開で男を取られたからだろう」「それは正しいが、老翁の知る事実とは異なる」「老翁が間違っているということではないのか」「否、老翁は正しさより真理に近いことを囀る」「勝手に鳴いていればいい」「取り戻せはしない」「それは正義」「会いたいとはもはや思わない」「それもまた正義」「けれど」「老翁は真理を囀る」「鳴けばいい」「お前はいつでも彼女に会えるんだよ」校庭には大きな銀杏の木があり、その広がった根に、周子が腰掛けている夢を見る。神奈川で育った周子が、埼玉にあるこの学校に来たことは一度もないだろうのに。僕は嫌悪と情愛を同時にそこに見て、歩み寄るかどうかを迷う。一陣の風に吹かれて瞬きをした後には、もうそこには切り株だけがある。僕が三年間、目にし続けた大木は、巣くわれてしまい、とうに切り倒されていた。
* * *
物語の途中で仄青さに消えた彼女に捧ぐための、不作法な未完。
頭上の月はただ白い。
あの日はとうに過去になり。
もう振り返ることはできない。
彼女が微笑む潮騒の音を聞く。
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